2018年03月02日

初心者の瞑想と高度な瞑想との違い

 こんにちは

 よしあき様 コメントありがとうございます。

以下コメント

「瞑想の定義が間違っていると思います。よって、結論も見当違いのものだと思います。瞑想は目を瞑り思考することではありません。あなたの仰る通り、知識を得るような効果はないでしょう。しかし、小学校で瞑想の時間を設けるようにしたところ、問題を起こす児童が減ったなどの結果が報告されてます。このように、感情処理能力など、脳の処理能力を根本的に向上させるのが一般的な瞑想の効果だと思います。私のコメントがどの程度正しいか、瞑想について一度調べて判断すると良いと思います。」

 自己紹介をしてから、ご意見を述べるのが礼というものですが。

 瞑想の定義が間違っているという指摘ですか?

 日本人がよく学ぶ初歩の瞑想がすべてではないですよ。瞑想はもっと奥が深いのです。

 よしあきさんの考える瞑想は、目をつぶり、感情を鎮め、何も考えず、心を無にすることですか? 瞑想で心を浄化して、精神を向上させることを目指します。初級では、思考しませんね。

 でも、ラマ僧くらいになると、違います。その程度のことはできて当然です。さらに覚醒をして、神仏と語り、叡智を手に入れ、瞑想で様々なことができるようになることを目指します。

 瞑想中にあらわれる魔物を退けるには、知恵がいります。神仏との対話も頭を使います。ここまであがると、心を無にして感じ取るだけでは、段階が何も進まないのです。

 瞑想中に神仏が現れ、問答することになりますから、様々に考えます。ラマ僧の多くは、そこで自分の考えを決めます。高度な瞑想では、思考します。初心者向けの本にはあまり書いてませんが、こういう領域もあると思ってください。

 が、そんな神仏との問答で得た知恵(叡智)はたいしたことがなく、また学習という点では効率が悪いのです。多くの人はこの段階を目標にします。私は前回、瞑想の究極の目標、その問題点を説明しました。

 瞑想の初歩しか知らないと、違う話のようにみえたかもしれません。私はラマ僧に親しいのが多くて、ついついこういう話になるのです。でも、やっぱり瞑想の話です。

 瞑想で叡智を求める人は日本人でも、多々います。釘を差しました。

 おわかり頂けたでしょうか?

 では

posted by たすく at 12:52| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月23日

神は巷の霊能者に意志を伝えるというのは、虚偽である

 神は巷の霊能者に意志を伝えるというのは、虚偽である

 一つの霊媒からメッセージが発せられるのが、一神教だ。そして、神は1つであり、2つあってはならない。
 二元論は、魔を神と同じに扱うから、神が2ついることになるから、一神教の範疇ではない。キリスト教の二元論はユダヤ教では、否定される。

 もう一つ、神は時代の霊能者を通じて、その意志を人々に知らしめた、という偽物すら預言者と認めようとする神の純粋性を乱す考え方がある。

 これはまちがいだ。なぜなら、旧約に様々な預言者がいるが、本物と認められたのは、アブラハムとモーゼの他には、ヨシュア、サムエル、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルなどごく少数だ。旧約に出てこない預言者は、偽物とされた。

 そして、イエス以後は、マホメットが唯一とされる。これら以外に、神は霊能者を通じて、意志を人に伝えはしなかった。その必要もなかった。

 神はあらゆる人々に働きかけることができ、何も霊能者を通じて、直接、言葉を与えなくても、十分に人類を導けたからだ。

 ただ、マホメット以後に、あまたの偽物が現れては消えていった。すべてが悪なるものとされた。もし、神が時代ごとに霊能者を通じて、神の言葉を残したならば、一つくらいそれが歴史上に、残っていてもよい。が、それが一切ない。

 つまり、神はマメット以後にそうしなかったのである。これは考えたら、すぐにわかることだ。

 というわけで、神は巷の霊能者に意志を伝えるというのは、虚偽である。神はそんなに安っぽく、軽薄ではない。それが事実である。これは強く否定する必要があるので、今あえて行う。
posted by たすく at 22:02| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月14日

霊性を追求することの善悪と評価

 霊性を追求することの善悪と評価

 立派な人間になりたくて、偉人や聖人を倣ったがまだまだ足りない。ついには仏教な聖典をあさり、そんな宗教の偉人に理想を見出す人は多い。こんな霊性マニアは、あらゆる面で宗教の中に理想があると考えがちだ。果たして、本当だろうか?

 宗教やスピリチュアル、精神世界には、科学的なものはほとんどない。ありきたりの精神論や、よくわからない宇宙論、古来から信じられる体系などがある。それは、本当に、世俗的なもので学問よりも優れているのか? それを正確に分析しようと思う。

 宗教かぶれは、何かあると「霊性は素晴らしい、最高だ。」と魂や霊、神を礼賛するが、本当に現在手に入るそれらの書物や教団に学ぶことで、この社会で最高の学習ができるのだろうか?

 私には、彼ら「霊性主義者」は頭が弱いようにみえて仕方ない。宗教が科学と学問よりも優越しない。だから、学問・科学を学んだほうが有意義なことが、多々ある。こんな、わかりきったことも彼らはみえてないからだ。この辺りを詳しく説明したい。

1, 精神論
 霊性を追求する人の多くは、理想の精神を求めている。確かに、最高の人格を霊性の中に見出すのは、正しいだろう。

 神以上の精神規範はない。神は聖典(聖書と旧約、コーラン)などから類推できる。また古今東西の偉人は、イエス、モーゼ、ブッダとくるが、宗教者だ。日本では空海に最澄だ。神や霊を研究する人ほど、精神は高くなれるに違いない。

 非宗教の偉人といえば、ソクラテス、孔子、諸葛孔明、アレキサンダー大王、アリストテレス。ヘーゲルに、レオナルド・ダ・ビンチ。思想家や芸術家、政治家だが、宗教の偉人には劣る。

 精神論もまだ宗教のよりも明らかに未熟だ。科学の心理学、儒教、武士道。宗教の精神論は、より全体的な人間性を養うのに対して、これらは部分的であり、貧弱である。精神を求める点においては、現在は科学は人間の精神の全体像すら解明してないに等しく、まだ宗教のほうがよいだろう。

2, 社会論
 宗教のユートピアや原始の宗教共同体などに理想を見出す人はいる。アーミッシュは科学機器を使わない近代的な生活をする。仏国土を目指す仏教徒もいる。

 宗教の理想社会は、道徳的な人物が統治して、道徳的な民がいると達成される、という構成員の資質のみの説明が多い。制度の説明がなく、それは社会論としては幼稚な部類となる。19世紀以前の社会論にありがちなスタイルだ。どんな法律があり、どんな配給制度が完備して、どんな流通機構があればよいか。市場はどうするか。など語られない。

 よって、このユートピアは中身がなく、実現できない。賢人ばかりを育成して、寄せ集めて社会は作ることができる。しかし、そのままではユートピアにならない。統治の制度、配給、自由、権限の分配など何も社会について規定されてないからだ。社会の骨組みがまったくないから、社会論としてはほぼ無価値だ。それでは誰もどうやってユートピアを実現すればよいのかわからない。

 仏国土は、アショカ王もつくろうとしたほど古代的だ。構成員の質では徳高き如来のような人格者と、権力に飢えた共産主義者という天地ほどの差があるが、制度についてはなきに等しく、原始共産制並みなのだ。

 そんな宗教の社会論はクズ同然だ。そんなものに憧れるよりも経営学や社会学などの社会論の示す理想の社会を目指すほうがはるかに優れている。国家論、法学、経済学も同じ。それらを読むと、どんな国造りをすればよいかがわかる。もし本当にユートピアを作りたいなら、学問の中の社会論を学ぶべきである。はるかによき社会を作れるだろう。

 宗教の中にある安っぽいユートピアにうかれるのは、かなり頭が弱いといえる。経営学や社会学、国家論を学ぶべきである。

3, 科学技術
 考えなくてもわかることだが、科学技術は、科学の専門書を読み、大学の理学部などで習得すべきだ。宗教団体に入って、神の秘密を学んで、科学の知識を増やすことはできない。霊性に知恵を求めるのは、たいていは無駄な努力となる。科学の本に、人がほしがる知恵はたくさんある。宗教を極めると、叡智が身につくというのは、考えを改めたほうがよい。科学書を読むと、そういうものはすぐに手に入る。

4, 人間性を高める
 宗教に専念すると、人間性が高まると信じて、仏教修行をする人、神に愛されるべく修道する人はあとをたたない。確かに、偉大な宗教家は過去に多い。だが、科学時代にあっても、宗教の修行をすると、本当に偉大な人間になれるだろうか?

 これは最初の設問と同じようで、少し違うのだ。偉大な人間は確かに、宗教家だった。神などもっとも高い精神は、宗教の中にしかない。

 だが、人間性を高めるには、宗教の修行法だけが優れたものではない。徳を積むのと、有徳の士とはまったく異なるようだ。悪人でも徳をたまに積むことができるが、悪人は徳をもってはいない。それら徳を極めるのは、仏教に多い考え方だ。神に選ばれたり、自ら新しい思想を書き表して、偉大な精神家となるのは、ごくほんの一部。たいていの人はなれない。

 一般の人はこう比較する。宗教界に入り、僧侶、牧師になるのと、世俗で活躍して、学者や医者、政治家とどちらが人間として価値があるか?

 当然、現在の社会では、一介の牧師や僧侶、さらには単なる信徒は、大学者や社会的に活躍する人たちよりも人格でまず劣る。各界に名が轟き尊敬されるような僧侶はごくわずかだ。彼らに劣らず、大学者や思想家、政治家などは尊敬される。そういう世俗にも、立派な人間は多々いる。

 現在、僧侶や信徒だけが人間として立派、精神が極めて優れているという時代ではない。日本においては、僧侶が卓越していることのほうが、少ないといっても過言ではない。人格を高めるために、宗教界に入るのは、さほど正しいものではない。専門分野で活躍して、自らを鍛えることもできる。

 海外でも、牧師などは尊敬されるが、人格的に優れているのは、そう多くはない。ただ罪を犯さない点で一般人よりもさえているくらいだ。人格がよくても、有能とはほど遠いのが多々いる。

 まとめ
 霊性は素晴らしいと思う人は結構いる。が、実際、霊や魂が優れているのは、精神のみ。過去の偉人や神くらいだ。精神世界の社会論、科学技術はガラクタばかりだ。実用的な知恵は科学に求めるに限る。また霊性の世界で修行するのと、世俗で己を高めるのと、今では変わらない。逆に、一般社会で活躍するほうが人は大きくなれる。

 霊性の世界には、素晴らしい精神しかない。それが真実であった。他は、世俗に学べ。

 今回、天国は分析してないので、今後加える。

posted by たすく at 22:07| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。