2016年02月29日

心の中に神様はいる?

心とは、何か?

 唯物的な科学者に、神様はどこにいるのか、と問いつめられる。苦しい返事をする信仰者達。
 「神様は、物理的に存在しないが、心の中にいる。」

 さて、これは唯心論だ。今日はそれを否定する。

 今日は、簡単に、「心」とは何かを考える。

 空想小説があるとする。それを信じるのは、「心」だ。ガンダムやドラえもん。それらは、いくらいると信じても、所詮、フィクションである。心の中に存在しても、それは、いるとは言わない。いるというのは、物理的に存在して、はじめて「それそのものがある。」といえる。

 なぜ「心」に存在するものが、重要でないといえるのか?
 心とは、言葉の世界だ。物語を信じることもできるし、神話も信じられる。矛盾も考えることができる。無限すら想像しえる。SFも、真実も、事実もだ。
 実在するものも、架空のものも、何もかも混在できる。だからこそ、心は、言葉の世界だ。概念の世界だ。どんなに矛盾するものもありうる。

 言葉の上では、共産主義という残酷な社会も、理想社会に仕上げることもできる。現実(物理世界)を無視したような「架空世界」を描けるのが、言葉だ。「心の世界」も、同じだ。

 「心」現実と虚実との違いが、はっきりしない世界だ。

「神様は心の中にいる。」というのは、「心が思い描く世界に、神様がいる。」という意味合いである。それは、神様がいることの証明にならない。なぜなら、心の中では、実際に存在しないものもいることにできるからだ。つまり、この唯心論者は、「神様は言葉の上だけの存在だ。」、「概念上の存在で、実在するかはどうでもいい。」と言ったに等しい。

 「神様は心の中にいる。」と言う人は、敗北している。

以上
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2016年02月24日

神様は、宇宙を内包して、全てを感覚しえるか?


 これは、脳科学の視点である。
 ある素朴な人は、こんな勘違いをする。

 『神様は、大地と一体化して、自然とも一体化して、宇宙と一体化している。だから、大地の痛みも、自然破壊の痛みも、公害による生物の危機も、自身の痛みとして感じ取るのだ。』

 これは無理がある。
 人間の場合、内蔵に痛みが走ると、イテテテてと思う。神様も、自然破壊があると、体の内部が痛がる。そう考えるのは間違い。

 簡単に言うと、人間の場合は、感覚神経が体の中にあるから、痛みを感じることができる。手を触れると、触られたと気づくのは、肌に痛点などあるからだ。

 つまり、痛みや暑さ、寒さを感じるには、そこに、感覚器官とそれを脳とつなぐ神経回路がなくてはならない。

 神様が、大地の苦痛を感じるには、神様は、地球上に感覚器官をくまなく設置して、感覚神経を密度濃く、張り巡らせていなくてはならない。しかし、1mおきに、そんな器官を作っていたら、膨大な神経ネットワークが必要となる。それを脳につなげると、それら地球上の感覚情報の処理だけで、手一杯になる。

 ガンダムの感覚を、脳につなげる、いうあのシステム。それの超巨大版である。

 脳が変に巨大化する。感覚するだけで、容量過多だ。人生が終わってしまう。これは、バランスが悪い。

というわけで、神様は、巨大な脳をもつわけがないから、そんな神経などはりめぐらせていない。地球上を、細かく感覚しない。

 神様は、地球と一体化しない。それよりもさらに大きな宇宙と一体化してはいない。脳科学の妥当な予測である。

以上







 

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神の精神は、その脳みそに宿る

こんばんは
 日本語ではあまりみかけない論点かもしれない。が、海外では、このくらい日常的に論じられてしかるべきだ。それを知っている方は、私に連絡を。


本日のお題は、『神の脳みそ』

 認知論という学問がある。脳のどこが、意志を司り、感覚して、運動を行うか。そういう脳の機能を研究する学問である。認識とは何かと究明する。脳科学でもよい。

 今日は、私はその最新の学問を使って、神様を考察する。

 『神様は、全てを見渡し、人の声を聞き、意志をもち、話す。記憶もする。』

 この万人に知られた神の能力。これを否定する者はいないと思う。脳科学は、そんな万能な才能には、どんな脳があるかを明らかにする。

 『神様は全てを見渡す』
 神様は、目をもっている。それに対応する脳は、視覚野である。視覚性連合野ももつはずだ。
 目だけもっていても、神経が脳とつながっていないと、何を見たかも感じることはできない。目と脳をつなぐ視神経が切れてしまうと、神様でもものが見えない。

 視覚野とは、視覚情報を色、形、奥行き、方向、位置関係などに分けて把握する。それらを統合して、画像情報にする。

 なんのことか。見たものの意味を知ることだ。それが視覚野。神様の脳みそには、必ず視覚野がある。神様は目があり、また見たものを理解するからだ。視覚野は、人間の後頭部にある。神様も頭蓋骨のどこかにもっているだろう。

 『神様は人の心の声を聞く』
 そう思われている。音声を理解するには、耳をもつ。神は耳がついている。ついてないと、つんぼである。耳なしに聞こえるかもしれない。が、かわりの耳をもっているに違いない。音声情報(空気振動)を感知するなんらか器官がないと、けっして音は聞こえないからだ。
 よって、音声を認識する脳、すなわち聴覚野ももつ。聴覚野とは、音を言葉や音楽、ノイズなどを区別して、認識する脳だ。言葉は聴覚性言語野で聞く。
 ウェルニケ野は、言葉や文字の意味を理解する機能を担う。
 簡単に、神様は聴覚を聞き分ける脳をもつ。

 『神様は意志をもつ』
 意志をもたない神様は、いやである。キリスト教では、この宇宙を作りもつなかったと考えられるためだ。無気力な神様が何をしたいかもわからない。意志は、前頭野で作られると思われている。神様は、それが発達しているのだろう。

 『神様は話す』
 これは言葉を理解し使えるということと、口を動かせるということである。話す時、脳のどこを使うか。ブローカ野が有名だ。ブローカ野とは、言葉を話したり、文字を書いたりする時の筋肉の運動を担う。前頭連合野にある。
 神様はこれらが鍛えられている。

 『神様は記憶する』
 きっと神様は、人間の過去の善行も悪行も全て覚えている。記憶力が相当よいに違いない。記憶は、海馬が中心だ。神様は、海馬をよく発達させている。海馬のない脳は、それに代替するような機能がないと、記憶しない。

 以上

 整理すると、これまで神様の才能から、脳科学が描き出せる神様の脳を明らかにした。神様は、視覚野、聴覚野、前頭葉、ブローカ野、ウェルニケ野と海馬は、最低もっていると思われる。

 地球の生物、人間とまったくうり二つの形状と大きさとは思わない。が、同等の機能をもつ脳をもっているだろう。神様はそれを頭蓋骨の中に収めているはずだ。

 神様の姿が、脳の中身まで、人間とだんだんと似てきた。神様の精神は、その極度に発達した脳に支えられているといえる。

 精神は形ないものではない。脳あっての精神(心)である。神様も同じ。

以上

posted by たすく at 21:48| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする