2016年02月08日

『曼荼羅』の真実とは--内蔵の神経である

私は宗教界の迷信などを解き明かしている。そもそも、瞑想でみえるものは、幻覚と一致する。幻覚は役に立たない幻と片付けてはいけない。そこに、人類の秘めたる未知の能力が隠されているからだ。

 幻覚を極めたら、霊視、透視も自由自在。苦痛もなくせ、全ての記憶を思い出す事ができ、どんなに寒いところでも平気な体になり、病気知らずだろう。その中で、今日は、『曼荼羅』の話。

『曼荼羅』とは?
仏画で中央に、大日如来があり、周辺に様々な仏が並ぶ絵だ。チベット仏教には、砂で曼荼羅を描く砂絵の習慣がある。
 実は、曼荼羅の本来の形状は決っている。芸術家が、自由自在に描き、人事に違うものではない。ラマは、瞑想中に『曼荼羅』を見ることができる。全ての瞑想者が見る曼荼羅は同じ形だ。それを見たチベット僧は、高度な瞑想者と尊敬される。
西暦数世紀の中国の高層(名は忘れた)が、曼荼羅を見て、飛び上がらないほどに喜んだという逸話もある。
曼荼羅の中で大事なのは、『両界曼荼羅』である。『金剛界曼荼羅』と『大悲胎蔵曼荼羅』の2つがある。これが答えである。実は曼荼羅とは『内蔵』なのだ。

 瞑想をどんどん深めてゆくと、記憶(走馬灯)、三次元透視、時空透視、夢、覚醒(霊視、霊聴)、運動神経、感覚神経、聴覚神経→そして、内蔵感覚にたどりつく。

その時、大きく光る網が見える。それが『曼荼羅』である。最初に見えるのが、『大悲胎蔵曼荼羅』で、内蔵で肺などの呼吸器系の内蔵の感覚がある。次に現れるのが、『金剛界曼荼羅』で消化器系の内蔵に対応する。

 これは象徴ではなく、内蔵の神経のネットワークである。その一部を瞑想中に、かいまみることができる。チベットの僧侶はそれを正確に描くことができるから、彼らは瞑想でこのレベルまで深く潜ることもできる。

 残念ながら、私はぼんやりしか見えないのだが、大きな光のネットワークのように感じられる。その光る各点を触ると、内蔵がこそばくなる。これは、仏教的な解釈は医学的には正確ではない。幻覚を正確に研究することで、これら『瞑想中に見る大きな網の景色』を解明することができるだろう。

 では、なぜ『曼荼羅』を描き、庶民にみせるか?
信心深くするため、というのは表向きの理由で、本当は、ご利益。健康増進である。寺に、触ると体が治る仏像が置いてある。曼荼羅は、見ることで、内蔵を薄く意識できる。それで内蔵の健康を取り戻すことができる。内蔵の健康を保つための道具なのだ。

 曼荼羅は本当に仏を描いてはいない。瞑想における指針、内蔵地図といったほうが正しいだろう。

posted by たすく at 22:49| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『第三の眼』の真実--本当におでこに眼があるわけではない

私の知る霊能の真実を、一つずつ書く。今日のお題は、『第三の眼』。世間が思い込んでいるのと真実とかなり違う。

『第三の眼』とは?
アニメや映画で、霊能者のおでこは、縦に割れて、そこから大きな眼がのぞく。それを第三の眼という。
私は覚醒してから、透視をいろいろやってみた。眼をつぶると、眼の形の視野が開く。その視界は全体が明るく見える。自分の目前を、透視でみようとする。すると、第三の目が開く。眼をつぶっても、おでこが縦に割れて、そこから前が見えるような感触があった。実際に割れてない。

 これが古来から、『第三の眼』と思われていた現象である。簡単にいうと、透視時に、『おでこの筋肉が左右に開いて動く』感じがすることだ。
実際に、おでこに眼があるわけではない。透視時に、おでこの中心あたりの神経がむずかゆくなる。前方を透視でよく見ようとすると、おでこ中央が左右にひっぱられる感覚がある。そこからきている。

 これは霊能者でも勘違いする人が多い。本当に第三の眼がおでこにある、と。が、おでこに『第三の目』はない。眼が開いたような擬似感覚はあっても。

 なぜ、おでこに眼がないと断言できるか?

 透視では、物体を透過してみることはできない。壁が視界を遮る時でも、先のものがみえる。それは、その壁の前のどこかの地点から、見ているからだ。壁を透過してものは見ていない。透視では、物体は通過して見えないのである。ここ大事。

 もし、みるときは、その物体の前に『自分の視点』を移動して、見る。よって、透視で物体を透過して見えないのだから、おでこを透過して、見ていない。というわけで、おでこの奥にもし眼があっても、おでこの皮膚などがその視界を遮るため、見えないのである。つまり、第三の目を通して、目前の視界が見えるわけだから、おでこの奥には眼はない。体の外にその眼はあると考えられるのである。

 おそらく、頭の上に眼があり、そこから目前を見ているのだろう。おでこの位置からものを見ているわけではない。

 第三の目は、覚醒時に、全視野を開けて、自分の前を透視で見ようとした時に、生じるおでこの感覚なのである。

 以上
posted by たすく at 22:40| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

合体霊(守護霊)が人間と一体化しない理由

こんにちは
 私は独自の霊界論を明らかにする。すると、私の心は、既存の教義から解き放たれ、自由になれる。世間一般の精神と同じになれる。

 ここには私オリジナルの視点がある。これらは、やがては誰もがふつうに理解するものとなるだろう。少し未来の世界からすると、これらはごくごく当たり前のことを語っているはずだ。


合体霊(守護霊)が人間と一体化しない理由

1,指導の実施はできても、指導計画を立案できない。
指導するには、計画を立てて、本人の行動に合わせて、自らも行動しなくてはならない。体の中にすっぽり入ると、自ら計画を練ったり、次の動作をどうするとよいかなど考える時間はもてない。

2,人体と共に壊れてしまう
人間から霊が分離すると、生前の姿そのままだ。手足が怪我する人はその霊も壊れる。守護霊も同時に、手足が怪我する。これでは指導できない(生きている間も死後も)。

3、人体の中に霊は入れない
霊は重なることはできない。霊同士はぶつかるためだ。人体の中に、すでに本人の霊がいる。守護霊が加わると、同一空間に2体となる。霊同士は重なることはできないから、守護霊は一体化できない。

4,霊は次元が異なる世界で人体と重ならない
異次元とは、まったく時空そのものが異なる。同一空間に別次元があることが可能な時、そこの異次元はまったく別の空間である。別の世界にいるということは、この次元の人体と一体化していない。

5,霊が心臓の中にいる時は、それは全身一体化していない。
霊が心臓に宿る(いる)と考える人は、心臓の中に霊の全身があるはずだ。その時、霊は肉体と一体化していない。

6,霊体と人体はサイズが異なり、一体化ができない。
体を動かす、脳を動かすには、霊と人間は同じ部位が重ならなくてはならない。しかし、脳神経は日々、ネットワークが変わる。それを一致させることはほぼ不可能。また人体と霊体は身長、頭のサイズが微妙に異なる。よって、完全に一体化することすらできない。

以上、これまで論じた霊と人の一体化説を否定する根拠をまとめた。

守護霊が人間と一体化するのは、『輪廻転生』の日本での説(霊は人間と一体化する)を、真に受けた発想で上記の考察から、間違いである。

では、
posted by たすく at 20:52| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする