2016年03月07日

信じるとは 世界観とは?

こんばんは 久々。3月に時間に余裕ができた。ここ一週間忙しかった。

 信じるとはそもそも何か?

本人がそれを真実だと受け入れるということだ。本人には、信条がある。現実世界は、感覚を通じて、認識できる。そして、頭の中には、それら世界を『本人固有のモデル』として理解する。これを本人の『個人の世界観』とする。それを羅列したもの、体系的にまとめたものを『信条』と言う。

昔の人は、地球は亀の上に乗っかっていると考えた。現実の物理世界は、歴然とある。それは、本人の心で変えられない。が、それをどう理解するかは、人ごとに違う。

現実世界 → 感覚 → 世界観、信条

 信じると、それは、本人の『世界観』や『信条』に加わる。

 神がいないと思っている人は、彼の思い描く世界には、神はいない。まるで『唯物論者』、『無神論者』のように。

 彼の頭の中には、『神が欠落した世界、科学的に現在検証可能なものとされるものだけで、構成された世界』がある。彼の世界は比較的単純だ。人間はいて、動物、自然もあり、宇宙もある。原子も分子もある。が、霊や神はいない。

 見える物、感覚できる物だけがいる、鈍重な人々が想像するような世界。伝統を否定した、18-20世紀初頭の科学のような、限定されたSFチックな世界なのだ。メルヘンも神も、世界の美しさもそこにはいない。ただただ共産主義者や労働者が、党の指令で、機械のように働くことに喜びを覚える。物欲だけに支配された世界なのだ。そこには規律も美徳もない。

 神や霊がいると思っている人は、彼女が現実だと想像する世界には、聖なるものがたくさん登場する。地球や宇宙がある。それとは別に彼女の考える世界には、天国や地獄、神や聖霊、過去の偉人達霊達がいる。

 唯物論者との違いは、大きい。信仰者は、この物理世界の他に、見えない領域に、神や霊、天国を加えるからだ。神が与えた精神の美しさや、聖典、教会も、彼女の世界にはある。

 これが信じるということの核心だ。本人の世界観、信条に加えるということだ。

 信じる、というのは、頭の中で行われる。頭の中で、彼女の信じる世界観に、一つ神や霊が加わることだ。たったそれだけのことだ。彼女の外の世界にほとんど何も影響を与えない。

 妄想世界というのがある。共産主義の理想などは、妄想の極地だった。しかも有害だった。宗教者も時に、妄想に陥る。永遠の命を求めたり、地上で男女の楽園を裸で実現しようとしたり。しかし、心や頭の中で考えることは自在にできる。とはいえ、それが物理世界における真実ではない。

 共産主義は作ってみたら、暗黒だった。永遠の命は現代の科学ではとうてい叶わない。フリーセックスのような世界は、退廃である。どれも楽園からはほど遠かった。心に信じることは、できる。だが、それが真実かは別である。

 人間は何を真実と思うかは、本人の自由だ。不可能なことも、可能なことも、物理世界に存在するものも、存在しないものも、なんでも信じることはできる。
 
 心の中に神がいる、と言っても、それは本人の世界観の中に神がいる、と言ったにすぎない。それ自体が、神の存在証明にならない。なぜなら、人間は心の描く世界に、どんな空想的なものも、矛盾も、真理も、奇っ怪な生物も住まわせることにできるのだから。

 『信じるものは、存在する』という飛躍はやめておこう。それが存在するかどうかは、物理世界の法則に照らして決まる。心の中の論理、人の思いの強さで、それが存在することにはならない。信仰が神を存在させるのではない。

 一度、君の世界観を簡単な絵で表してみたらよい。とても滑稽だと気づくだろう。昔の人の天球図のように。信じているもの・世界とは、そういうものである。

 神を信じたほうが優秀な人間かどうか? それはまた別の問題である。

 では
posted by たすく at 18:10| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする