2016年04月23日

奇跡は神の証明にならない。

奇跡は神の証明になるか?

どこの宗教団体にも『奇跡』がある。
 難病が治った。地震で信者の被害が軽微だった。円盤が見えた。写真に輝く光体が写った。九死に一生を得た。奇跡は、熱心な信者や教祖に起きる稀な現象だ。神がいる証拠とされる。

果たして本当だろうか? それらは自然現象ではないのか? 確率の低い偶然が起きても、それは神の仕業としてよいのだろうか? 本当にそれら現象は、神の関与によって生じたものだろうか? それを証明できるのだろうか?

科学が進むと、奇跡はどんどんありきたりな自然現象となった
南米で日食は神の怒りだった。が、ヨーロッパ人にとってそれは予知することもできた天体現象である。日食、月食は奇跡ではなかった。それを予知することも神の力の根拠とならなかった。
地震予知も学者は今できないが、未来ではいつか予知できるようになるだろう。地震予知を成功させただけで、神に愛されてはいるが、神の下にいる者とは断言できない。地震への洞察が学者より優れていただけかもしれない。
ペスト、コレラ、結核は中世の重病だ。生還は中世においては少なかった。生き延びた者は、神の奇跡が働いたからだろうか。医学的に何らか幸運だったに違いない。

 現代で奇跡とされるものは、神の証拠にならない。
難病が治ったことが神の仕業というのは疑わしい。現代医学では不明な治療法が偶然、行われたからではないだろうか。それとも、ふつうに薬で治ったのに、信者の前で奇跡にしたか。神を原因とするのは飛躍しすぎだ。
円盤が見えたから神がいる。私はこの論理がよくわからない。円盤は、他の惑星の乗り物だ。宇宙人を発見した話だ。神を見たという話しではない。
地震で被害が軽微だったのは、神様のおかげ? 地震から逃げられたのは、地震がくるのを知っていたからではないのか? 知らなかったとしたら偶然だ。神が教えてくれた、もしくは神が助けてくれた、という前に近所の人たちが助けてくれたからではないのか?
 写真に輝く光体が写った。私が思うにそれは神ではないだろう。屋久島の写真で映る光の球は雫だ。神様が光るなら、高感度のカメラでとらえられるはずだ。が、幽霊でさえ簡単にとらえられない。神様はなおさらだろう。
 九死に一生を得た。それは偶然だ。物事は確率的に発生する。そういうことは必ずある。だから、確率以上に助かったという話でないと、それは超常の力にならない。もし神秘の力が働いていたとして、悪か神か、幽霊によるものかを、どうやって区別するというのだろうか?
 というわけで、統計的に確率の低い出来事が、宗教団体内に起きると、奇跡とされる。それは、超自然現象ではない。また、もし超常現象であっても、科学が発展すると、神なしに生じた現象だと説明できるだろう。

 ほとんどの奇跡は、神の存在証明にならない。
 神の証明は、そんな神とはほとんど無関係に生じた現象から行われるものではない。『神による現象』、『神が引き起こした様々な現象』を研究しても、神の証明にならない。間接証明は、うまくいかないだろう。直接証明が必要である。『神自体の現象』を究明しなくてはいけないのである。

 円盤を見るのが不思議としない
 現代の科学では生命の住む惑星が存在する確率がかなり高い。知的生命はいると考えられる。それが文明を持ち、地球を超えた科学をもち、円盤に乗って、遠く離れた地球に来訪する。その円盤を人が目撃するのは何億分の一の奇跡とすることはできない。

posted by たすく at 20:56| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月19日

心の真実とは、現実のことだ

心の世界にどっぷりはまっても・・・ 真実から遠くなる
 地下の穴に潜って暮らしていた人が地上に出て、初めて外の世界を見たら、これこそ真実の世界だと思うだろう。
 地下は真っ暗で何も見えない。が、地上には光があり、多くのものをつぶさに見ることができる。空に太陽、月がある。地上には草木が生え、たくさんの動物、昆虫がいる。

 人間は地上に暮らすから、これらの地上の世界を当たり前と思っている。それが現実だと。我々が暮らす本当の世界だと。

 この例は、盲や暗い世界に住む人は、明るい健全な世界を知らないことを言いたいために出したのではない。現実とは心に思い描いた世界ではなく、この外側にある大地、空、宇宙など物理空間だ、と力説したいからだ。

 まず確認する。人間は、本当の世界を地上のことや宇宙のことだと考える。外の世界こそが真実であると、普通考える。心に思うことは、時々、間違えることもある。古い宗教などは多くの点で間違っている。心が思い描く世界、心の中の世界は本当の世界ではない。

 納得できただろうか。

 一部、間違った考え方の人はいる。心の世界こそが真実で、現実は架空なのだ、と。仏教の誤解の一つである。

 なぜ間違いか? 心ではなんでも思い描くことができる。花を見る、と心に思うとしよう。しかし、目を開いても、視界に花がなくては花を見ることはできない。花がないなら、心がそれを望んでも、花を見ることができない。心の世界は、本当ではない。現実に花がなくては、心でいくら花を見ると願っても、花を見ることはできない。心が真実ではなく、現実こそが本当である。

 もう一つとして『架空の世界』を信じる人も、間違っている。
 空に円盤が浮かんで、10年後に人類を助けに来るという予言を信じている人がいるとしよう。10年後にこれが真実になるかどうかは、この科学SF信仰の強さによって決まるのではない。実際に、10年後に現実に円盤が都市上空に現れるか否かで決まる。つまり、このケースでも、真実は現実しだいなのだ。予言がどうあがこうとも。

 他にも様々な『霊の世界』、『神の世界』を信じる場合も、同じだ。現実に霊と神や天国、地獄があるかどうかなのだ。それが実際になければ間違いであり、現実にあるなら真実となるのである。信仰によって、真実になるかどうかが決まるのではない。現実に、霊や神がいてこそ、その信仰が真理になるのである。

 誰か他人が描いた『宗教世界』、『SF』、『予言』、『架空空間』や本人がいつのまにか思い描くようになった『独自の世界観』に、真実を見出そうと頑張っても、それは徒労なのである。現実と一致している時はそれは真実だろう。が、現実から乖離したような世界観は、そこに真実はない。

 心に真実を求めてはいけない。外の世界こそが、本当なのだ。現実、物理世界を見て、世の真実、真理を学ぶ。今回の教訓である。心の真実とは現実のことだ。心の世界を探求しないで、現実を追求しよう。すると真実にたどりつける。


 この見解は、精神世界探求者に大きな打撃をもたらすことは、うすうす察知しているが、それはそれである。
posted by たすく at 20:18| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月15日

宗教とは政治

こんばんは
 自分らしい観点を発表する場がないと、しだいに疲れてくる。喜びが足りない。私は地震予知、社会評論、音楽・3Dをブログで発表する。課題をこなすような日々だ。自分らしいことをしている実感がない。

音楽は今は作曲中が一番楽しい。演奏する機会はないから。3Dは、製作中は楽しい。でも、私は精神のことを研究するのが、この人生では好きなのだ。それもしようと思った。

科学と宗教との関係を論じるのは、面白かった。が、そろそろ話題を変える。私の興味は、そこだけではない。

「宗教は政治」
 政治とは人類社会を最良に保ち、主導して、発展させることだ。宗教は、本来そういう全てを導く役割だった。
 宗教からイスラエルの王国が終わる頃に「国家法」が分離した。法律はいつのまにか、神の定めるものでなくなった。「五感の経験」が離れたのは、平安時代以後か。「力や力学、科学、論理」が神なしでも、経験でたどりつく真理だったからだ。そして、現代、宗教は残る「霊」を扱うものと限定される。
 現代では、宗教は霊についての学問・慣習・伝統と規定される。かつて宗教は世界の全てを扱った。今や学問の一分野である。しかし、宗教がそんなに狭いものだっただろうか?

 どこかの憲法には、政教分離がある。これは国家論の発想である。政治と宗教が本当に分離しているからではない。日本では明治神道が国家に入り込みすぎた。明治神道を戦後の日本から排除するために、占領国のアメリカが設けた制度だ。本当に、国家と宗教が別個のものではない。

もし、国家と宗教が原理的に別個の存在なら、政治は宗教を全て追い出すだろう。宗教のない国家こそが、政教分離の究極である。そこでは、宗教の禁止だけがある。

 宗教の自由など国家に規定すらなくなる。政教分離は、宗教の自由に反する項目だ。正しくは人権違反である。執政者がどんな宗教的信条を持とうと関係ない。宗教団体が政治政党を作ることも当然、信教の自由の上に許される。国家が宗教を支援することも、悪いことではない。

 政教分離を、文字通り信じてはいけない。アメリカでは、神が憲法を与えたと理解される。アメリカではキリスト教の墓参、行事が組み込まれている。単に、明治神道による支配を排除するための条項と理解したい。

 また、宗教を国家から切り離すというのは、合理性に欠く。

 もし、政教分離が真実なら、宗教者は政治を語ることもできないだろう。しかし、それはおかしい。古来、宗教は国家を理想的にすることを目指してきた。精神だけでなく、社会の理想を説くのが宗教だった。

 政教分離を信じこんだ宗教者は社会を語ることを避け、生き方を説き、こじんまりする。あの世のことを諭すのが宗教者の勤めと思い込む。それは本来の宗教家ではない。間違いである。

 神は人類を導く。それは言葉、食料、土地、国家、身に付けるべき慣習、能力、産業技術、科学など全てに及ぶ。神に近い宗教家(神から遠いのは唯物論者)は、神の代理として、それらを人類に示し、導かなくてはいけない。宗教家はあらゆる人類の課題を解決すべく、任務を引き受けなくてはならない。つまり、政治家の役割を担うべきである。

 いや、宗教は世界全てを含むのである。それが本来の宗教である。宗教はすべて導く側のものだ。神がそうであるように。

 以上
posted by たすく at 21:49| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする