2016年04月15日

宗教とは政治

こんばんは
 自分らしい観点を発表する場がないと、しだいに疲れてくる。喜びが足りない。私は地震予知、社会評論、音楽・3Dをブログで発表する。課題をこなすような日々だ。自分らしいことをしている実感がない。

音楽は今は作曲中が一番楽しい。演奏する機会はないから。3Dは、製作中は楽しい。でも、私は精神のことを研究するのが、この人生では好きなのだ。それもしようと思った。

科学と宗教との関係を論じるのは、面白かった。が、そろそろ話題を変える。私の興味は、そこだけではない。

「宗教は政治」
 政治とは人類社会を最良に保ち、主導して、発展させることだ。宗教は、本来そういう全てを導く役割だった。
 宗教からイスラエルの王国が終わる頃に「国家法」が分離した。法律はいつのまにか、神の定めるものでなくなった。「五感の経験」が離れたのは、平安時代以後か。「力や力学、科学、論理」が神なしでも、経験でたどりつく真理だったからだ。そして、現代、宗教は残る「霊」を扱うものと限定される。
 現代では、宗教は霊についての学問・慣習・伝統と規定される。かつて宗教は世界の全てを扱った。今や学問の一分野である。しかし、宗教がそんなに狭いものだっただろうか?

 どこかの憲法には、政教分離がある。これは国家論の発想である。政治と宗教が本当に分離しているからではない。日本では明治神道が国家に入り込みすぎた。明治神道を戦後の日本から排除するために、占領国のアメリカが設けた制度だ。本当に、国家と宗教が別個のものではない。

もし、国家と宗教が原理的に別個の存在なら、政治は宗教を全て追い出すだろう。宗教のない国家こそが、政教分離の究極である。そこでは、宗教の禁止だけがある。

 宗教の自由など国家に規定すらなくなる。政教分離は、宗教の自由に反する項目だ。正しくは人権違反である。執政者がどんな宗教的信条を持とうと関係ない。宗教団体が政治政党を作ることも当然、信教の自由の上に許される。国家が宗教を支援することも、悪いことではない。

 政教分離を、文字通り信じてはいけない。アメリカでは、神が憲法を与えたと理解される。アメリカではキリスト教の墓参、行事が組み込まれている。単に、明治神道による支配を排除するための条項と理解したい。

 また、宗教を国家から切り離すというのは、合理性に欠く。

 もし、政教分離が真実なら、宗教者は政治を語ることもできないだろう。しかし、それはおかしい。古来、宗教は国家を理想的にすることを目指してきた。精神だけでなく、社会の理想を説くのが宗教だった。

 政教分離を信じこんだ宗教者は社会を語ることを避け、生き方を説き、こじんまりする。あの世のことを諭すのが宗教者の勤めと思い込む。それは本来の宗教家ではない。間違いである。

 神は人類を導く。それは言葉、食料、土地、国家、身に付けるべき慣習、能力、産業技術、科学など全てに及ぶ。神に近い宗教家(神から遠いのは唯物論者)は、神の代理として、それらを人類に示し、導かなくてはいけない。宗教家はあらゆる人類の課題を解決すべく、任務を引き受けなくてはならない。つまり、政治家の役割を担うべきである。

 いや、宗教は世界全てを含むのである。それが本来の宗教である。宗教はすべて導く側のものだ。神がそうであるように。

 以上
posted by たすく at 21:49| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする