2016年05月23日

世界の終わりに関する考察 宇宙の終わり、地球の終わり、人類の終わり

こんにちは、

 キリスト教ではよく、『世界の終わり』がある。昔の人の『世界』は、ちっぽけな地球の1エリアだろう。国が終わるか、洪水で平野が水浸しになるほどの災害である。現代人は、古代の人にとっての『世界』が小さい範囲だということがわからない。現代人の考える『世界』で解釈しょうとする。それで、宇宙全体をさすと思い違えた。

 その終末論にまつわる話である。

 世界(宇宙)の終わり
 現代の宇宙論では、宇宙は空間ごと爆発的に広がっている。ある人はそれがいつか収縮するという。ある人は、そのまま永遠に拡大する、という。私は後者の立場をとる。空間や物体が外に外に広がっても、その速度が小さくなることはあっても、収縮するだけの力は生じないだろうからだ。
 私の宇宙論では宇宙の拡大が止まり、小さくなって、あらゆる宇宙の物質は一つに擬縮される、という宇宙の終わりはこない。人間は宇宙の終わりを心配しない。

私の考えでは、宇宙に終わりはない。

 地球の終わりはくる
 太陽はやがて大きくなり、その後、小さくなる。太陽は小さいから超新星爆発はしない。太陽は光を放たない凍えた星となる。その時、地球に届く日光は弱くなり、地球は氷に閉ざされる。地球に緑はなく、そこに生命は住めない。地球という惑星は永遠に残るだろう。が、生命が住めない星である。それが私の想像する地球の終わりだ。

 地球の終わりは、太陽が収縮して、弱い光しか放たなくなって、地球が氷の惑星になることだ。破滅した、爆発することではない。それは数十億年後にくる。100億年後くらいと見積もっている。

 太陽が大きくなった時に、地球が太陽に飲み込まれて、地球が破滅するのでは?
 人類がそれまでに破滅したら、地球はそれで宇宙の藻屑となるだろう。が、人類は知恵を出し、地球の軌道をずらし、太陽から遠ざけるだろう。訳なくそれを行う。

 人工太陽を作り、日光の弱体化を防ぐ?
 地球が氷の惑星となる。それを放棄したくない人達もいるだろう。人類が地球に固執する時、人工太陽を作り、なんとか地球上の生物は維持する。それもありうる。が、別惑星への移住のほうが簡単なら、そちらを選ぶだろう。太陽の巨大化後に、光が弱くなるまで、数十万、数百万年はある。それまでに移住可能な惑星をテラフォーミングして、緑ある惑星にすることはわけないだろう。

 宇宙の終わりは来ない。地球の終わりは、数十億年後だ。それらは先のことだ。慌てて心配することはない。その頃には、別惑星の移住するだけの宇宙船くらいあるだろうからだ。

 人類の終わりについて
 大隕石の衝突、強烈な核爆発による核の冬。人類が絶滅しうるような自然災害は理屈では可能性ゼロではない。それを終わりの日と呼ぶこともできる。が、今では、大隕石は発見しだい回避できる。地球に大損害を与えるくらいなら、水爆をぶつけて、その隕石の軌道をずらすだろう。
 核戦争は冷戦が終わり、もう回避されたにも等しい。ロシアは民主化して、中国ももはや半分は資本主義国で、半分は西側である。

 地球が終わっても、人類は自ら数億年かけて緑化して、生命が住む別惑星に移住する。人類の終わりはこない。

 以上まとめると、

 宇宙の終わりはこない。地球の終わりはくる。人類はその時、別惑星に移住するから、人類の終わりもこない(あまりに老化すると、種として絶滅する可能性はある。なぜなら、何百億も続いた人類種は見たことがないからだ。)。

 結論
 宇宙の終わりを数十億年、いや未来永劫に心配する必要はない。
 地球の終わりは、核戦争や小惑星の衝突、超新星爆発の巻き添えなどで、低い確率だが、心配してもよい。数十から100数億年後には必ず、生命が住む惑星としては終わる。
 人類の終わりは、それら地球の破壊もしくは、地球上の生物の消失によって、あり得るから、心配してもよい。それを防ぐことが人類の課題である。
posted by たすく at 22:25| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月21日

何かおかしい ---  亡くなった人、犬、ペットが心の中に生きている?

亡くなった人、犬、ペットが心の中に生きている?

よくそう言う人がいる。愛する我が娘を突然失って、悲劇を受け入れた。しばらくしたら、こういう『娘は私の心の中に生きているのです。』と言い出す人たちがいる。
彼らは亡くなった人・ペットの生前の姿をよく思い出す。それらの写真は動かない。それらのビデオにはいつも同じ姿がシーンが映る。それらは過去だ。今は生きてはいない。が、遺族が故人を心の中に思うとき、それらは生きているのだという。

それらは過去に生きていたが、今は生きていない。写真も映像も記憶の中の故人も、過去の生前だ。それらを思い出しても、今生きてていることはない。

が、彼らは、『故人が心の中に生き続ける、今も心の中に生きている。』という。彼らは、それらの霊を見たわけではない。ただただ思い出すだけだ。記憶の中のそれらを思い浮かべただけだ。
だから、けつしてそれらは彼らに話しかけることはないし、今も生きているように振る舞うことはない。なのに、生きていると感じるようだ。どうしてだろう。

彼らは、生きているそれらを心の中に本当に見るのだろうか?
霊能者なら、たまにそれらの霊を見て、故人が霊となって生きていることを知る。が、一般人は霊能がないから、死後のそれらを見ることができない。だから、彼らは故人と交信しているわけではないだろう。

ただ過去を思い出すだけで、生きているように感じるのだろうか? それしか考えられない。哀しい。

それは記憶である。それらが生きていることにはならない。慰められるとしても。私は、これは単なる『願望』なのか、それとも同じ写真を長く見続けていると、それが生きているように感じられる錯覚というものなのか、言葉のアヤ(表現)としてそう言った(死んで彼らは何も残さなかったけど、私の心の中には生きて、輝いている、彼らが生きた証がある、という主張。)のか、明らかにしたいと思っている。


現在は、以下の方法で、亡くなった人と会える。それで生きていることを確認できる。

その1
霊能者の母親が、失った息子を毎日求めていたら、息子から交信してきた、という話がある。その息子はあの世で宇宙人と一緒にいて、アメリカ経済のことを語りだした。しかし、その母親は盲信してしまったので、その『オレオレ息子』を信じてしまった。これはニセモノである。

その2
霊感がある子供は、母親の霊が時たま、家にくることを感じる。あの世で、達者でやっているようである。これは幽霊なので、本物である。

その3
霊感のある妻が亡くなった夫のことを長く思い続けていた。すると、心の中の夫が語り出した。いわゆる交信可能となった。この夫は心で亡き妻と繋がった。やがて、その妻は、目前にぼんやりと姿を現した。その妻は夫の心を読み取ることができる。これはニセモノである。

その4
妻を失って悲しんでいた夫は、幽霊と交信する装置をある時、手に入れた。それを使って、あの世にする妻に出会った。妻はやつれた姿をしているものの、生きていた。これが現実になるのは科学の発展を待たなくてはならない。

その5
幽霊を呼び出せる霊能者に召喚してもらい、霊能者を通して、霊と話した。降霊術のほとんどはニセモノが現れる。

現在、もっとも無難にあの世の人物と会話する方法は『その4』である。裏で交信装置を手に入れよう。

posted by たすく at 21:21| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月19日

唯心論の否定 -- 人は霊になる やがて天国にゆき神と会う。人、霊、天国、神は心の外にある(いる)

ここは、お硬い哲学論争を語ります。


唯心論が間違いの根拠

科学的に霊や神の存在が証明されない。どこに神や霊がいるのか? 問いつめられた信仰者は、つい『私の心の中にいる。』とうっかり言ったのが間違いの始まりである。神や霊は、心の中にいない。それを新しい論法で今回は、証明する。

これまで様々な方法でこの唯心論を否定してきた。再見しよう。

 高等知性をもつ生物の脳の大きさ。脳の中に霊がいないことの証明
神や霊が知性をもつ生物として、その脳のサイズはどのくらいか。小さな昆虫並では、脳が高度に発達しない。猿くらいの脳の大きさでも、猿以上の賢さをもてない。神にはとうていなれない。せめて人間以上の大きさの脳でないと無理だろう。
心は人間の頭の中にある。で、神や霊の脳は、人間と同等サイズである。つまり、そこに人間の頭の中に、霊や神が入り込むことは、物理的に不可能だ。神や霊が入り込む空間が頭の中にない。だから、神は頭の中にいない。また人間の頭の中にあるココロの中にいない。

存在する次元が違う場合の証明
霊と人間のいる次元が違うなら、空間も違う。空間が違うということは、人間がいる空間と霊や神がいる空間を時空は別だ。その2つの空間を通路でつなげなくてはならない。ということは、結論。霊や神が心の中から、時空通路でつながっているとすると、神や霊は人間とは別の空間にいる。心の中にいない。

頭に思い描く自分だけの世界に神や霊が存在するという場合、心の中に神がいないことの証明
人間は、神や霊を思い浮かべることができる。心はなんでも空想できる。だから、神や霊は心の中にいる。こういう破綻に近い主張をする人もいる。これは、言葉の上の話だ。言葉の上では、矛盾することも考えられる。最強の盾と最強の槍をもつ人が世の中にいる、と考えることもできる。明日、太陽が消え失せる世界も考えることができる。神や霊がいない世界を考える人もいる。物語、文学など概念上は存在する。

 文章の中では、どんな滑稽ことも表現することができる。物理的に不可能なことでもだ。また絵の中でも、同じように、非現実的なことは描くことはできる。

 頭の想像とは、文章か絵という意味である。そこに神がいる、と人間は考えることはできる。が、それは仮想なのだ。仮説なのだ。現実ではない。よって、現実的に、心の中に神や霊はいない。

信じたことは、自分の頭の中で、概念的に存在するようになる。この場合は、頭の中に思い描く自分だけの世界(概念や絵)に神や霊がいる、という話だ。現実に神や霊がいる、ということではない。なお、概念上の神や霊は、言葉の上だけの存在なので、神や霊がそこから外に出て、現実に人々を守り、導くことはない。彼の頭の中にだけいる神や霊というものなので。

 ここは以前、もっとよい反駁を思いついたのだが、今日は思い出せない。

今日は新しく、もっとわかりやすい方法で、唯心論に反論する。

 死んだら霊になって、天国にゆき、神と会うから、心の中にいない
人は死んだら霊になる。霊となって天国にゆく。霊は天国で神と会う。人は心の外にいる。そこから生じた霊も天国も神も心の外にいる。

これで証明終わり。簡単だ。

人は心の外にいる。心の外にいる人が死んで、霊になったら、その霊も心の外にいる。霊になった途端に、誰かの心の中に入ってくるわけではない。霊能者は霊を見るが、必ず心の中にいる霊ではなく、目前や体の外にいる霊を見る。霊は自由に外を歩きまわる。誰かさんの心の中をあちこち動きまわるのではない。
心の外にいる霊が天国にゆくと、その天国は心の外にある。天国は心の中にあるわけではない。天国も心の外にある。さらに、その霊が天国で神に会う。天国にいる神は、天国自体が心の外に位置する。だから、その神も心の外にいる。

というのはこの成仏の途中で、霊は一度も心の中に入ってないからだ。天国は誰かさんの心の中にあるとは、どこにも書いてない。もちろん聖書にも。

その心の外にある天国で、その霊は神と出会う。つまり、神も心の外にいる。

 霊も神も心の外にいることがわかっただろうか。神や霊は心の中にいないのである。



posted by たすく at 20:26| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする