2017年02月07日

 精神次元の話 空の精神は、何次元か? そして、空の精神の真髄とは?

 精神次元の話 空の精神は、何次元か? そして、空の精神の真髄とは? 

 仏教では、感情から離れて、記憶や経験、自分の感覚から自由になると、それらをありのままにみつけられる「空」の心にたどりつく。

 心を空(から)にして、物事をみつめる。先入観や経験、さらには感情から自由になって、物事を判断する状態である。悟りの境地である。

 これは、実際にはどういう精神状態なのか?

 今日は提案である。前回、精神の段階を示した。最初は、内的感覚を感じ、次に世界の美しさなど感覚的なもの、快適なもの、快楽ものをよしとする。感覚を極めようとする。そして、その次は、感覚的なものに価値をもたなくなり、知的であろうとする。この場合は、行動規則や運動に興味をもつ。だが、これはこれで、自分の体の動きにとらわれ、世界の動きにとらわれる。まだ自然の外にある世界から自由ではない。

 空の段階では、そのように感じるものや自分の身体感覚すべてから、自由になるのであるから、その一つ上の段階と思われる。つまり、理性の段階である。

 理性の段階においては、あらゆる体験から自由な自己を意識する。デカルトのいう、全ての自分の姿、痛み、記憶、体、じぶんの心の動きがなくなっても、自己が純粋に在るという状態である。空の意識と、それはよく似る。

 デカルトは、それを「純粋自己」で、「数理的な自己」とみなしている。今日の提案は、仏教の「空」はそういうデカルトのいう、数理的な自己の状態ではないか、というものだ。

 仏教においては、「空」における自己のそのものは、さほど研究されてない。西洋哲学では、デカルトの概念で、それが説明される。

 それは感覚でとらえられないものであるからして、それは数学・幾何学的な知のみが外在としての物体と対応する。自然は力学的、数学的な世界として、理解される。

 これが空の状態における自己の正体なのだ。西洋哲学では、心の中には感覚的なものと、数学的なものの二種類しかない。心の中にあるもので、それが感覚でなければ、それは概念であり、数学的なものなのである。

 「空」を西洋哲学でとらえると、「空」とは感覚から切り離された自己であるから、それは「数学的・幾何学的な自己」を純粋に認識している状態といえる。

 というわけで、仏教における「空」とは、感情や感覚が消えて、理性だけが働く状態なのだ。それは、精神における理性の段階といえる。

 空の状態なった時、その者は7次元(理性の段階)に似た心になっている。だが、もし、その人物が単に、感覚や感情などが心から消えても、その自分自身の理性的なスタイルに気づいていなくては、それは理性の段階に至ったとはいえない。空の段階前の心(感覚を消すのは、空になる前である)にしかたどりついていない。

 空の精神は、理性の段階と理解できただろうか。理論上は。が、その心に瞑想でなれたとしても、自分自身が、完全なる理性であると認識できない者は、7次元には至っていないのである。

 「空」の哲学は、その感覚などを消す面では、仏教のほうが、優れてはいる。が、その内実だけをみると、仏教は自己がどうなっているかを、明確に表現できてないから、理論としては不完全である。西洋哲学は、その時「理性的自己」、「数学的、幾何学的自己」と明確にあり方を示している分、1日の長がある。

 というわけで、空の哲学は、仏教ものは理性的自己の説明がなく、不完全である。理解できただろうか。

 これは仏教哲学の一つの限界を超えた画期的なものである。


posted by たすく at 21:31| Comment(0) | 精神次元 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする