2017年02月10日

高い精神の世界 社会とは何かを探求する年齢

高い精神の世界 大学に入るといったん、自分の探求がわからなくなる

大学に入って、しばらくは自分が何に関心があるのかわからなくなる。ぼーっとしている。三ヶ月以上経過すると、何かむくむくと起きてくる。

社会について、ぼんやり関心が向いていることに気づく。人間関係について、根本的に考えたくなる。しだいにはっきりする。

社会論は、どのように学んだらよいか? 人間関係の力学はどうやって決まるのだろう。自由とは何だろう。興味が湧くまで待っていたらよい。しだいにはっきりしてくる。

社会論を学ぶ時に、何を読めばよいか? アドバイスしよう。最高の社会論を読むに限る。社会学や経営学。そこにやがてみつかるだろう。経済学は、あまり役立たない。私は自由論は、あまり興味をもたなかった。

大学生では、左翼のおバカちゃんたちが、マルクス経済学など言うのだが、それはやめたほうがよい。人間関係を最も深く分析しているのは、経営学なのだ。マル経など安っぽすぎて、すぐに飽きる。いや、学ぶものがないのだ。同じ分野では、経営学などを読むほうがよほど合理的だ。

社会論を身に着けるには、経営学を読む以外にない。経営管理論や生産管理論くらい極めると、一人前だろう。私からすると、それが社会論で最も、優れた論だ。

創造性開発は、必要である。問題解決の技術は、人間が何を考るかについて洞察を与える。効率などの概念も理解しておきたい。

21歳頃まで、"社会"に関心が強くなる。そして、最終的には、生産管理論や生産機械などに興味が移る。機械工場を勉強して、終わる。

なにしろ、最も効率的な生産は、機械工場なのだから。社会の究極はある意味、ロボット工場だ。

それを理解すると、社会探求の時代は終わる。
posted by たすく at 23:54| Comment(0) | 精神次元 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

 高い精神の世界 高校時代の末期 --理性を探して、宗教をのぞきこむ


 高い精神の世界 高校時代の末期 --理性を探して、宗教をのぞきこむ

大学に入った私は、経済学部で学ぶことになっていた。そうそう、高校生活末期のことを話そう。

ヘーゲルで理性の高みをみつけた。それ以後の哲学は、さっぱしない。そんな時に、社会論に強くひかれない。近代から現代の思想を流れの中から探す。しだいに、宗教の書物も読む。

優れた理性は、どこにある? 高校時代の関心は、『最高の理性』を見つけ出すことだ。現代思想には、合理的な体系は見いだせない。そこで、真理があると思われる宗教にも手を出す。

神が示す真理。そこには人間が書けなかった真理、理性がみつかるだろうか? 調べる気になる。なにしろ、まだ完全な理性を手に入れてないのだから。ヘーゲルは、理性の形式を明らかにした。が、中身自体は、示してない。

そういうわけで、宗教の書も一通り調べることになる。そこで、真理に近いものが羅列したものがみつかると運が良い。聖書は眼中にない。法則や理性が明確に書かれてないから、学びようがないからだ。

これまで築き上げた『理性的なもの』。それが最もたくさん描かれてる宗教書に興味をもつだろう。少しでも嘘がある、と見破ったら、それはすぐに廃棄処分となる。マルクスを捨てたように、キルケゴールに意味を見出さなかったように、フロイトの未完成さにあきれたように。構造主義のわかりにくさに辟易したように(真理を正しく書いてないとこうなる)。

まだこの時、社会論には興味がない。
posted by たすく at 21:46| Comment(0) | 高い精神の世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

高い精神の世界 完全な理性を求める高校時代後半

高い精神の世界 完全な理性を求める高校生

日本に高度な精神性がない。そういう人たちが沈黙してきたからだ。理性や哲学の高みがないのだ。そして、愚者の言葉がまかり通る。マルキストという低級な輩が、幅を利かせてきた。彼らに思想性はない。破綻することもわからなかったのだから。

というわけで、そんな日本の思想の貧弱さを打破するために、私が、これまで生きてきた中で気づいたことを、ゆっくり記していこう。

まずは低級な思想家が気付けない世界を一つ。上の人たちの哲学を示そう。といっても、私の考えなのだが。

まず哲学では、デカルト、カント、ヘーゲルの理性がわからなければ、一角の人間とはいえない。ヘーゲルは、『人生哲学』(岩波文庫)で理性の発展を示した。人類では、学問のように法則、理論の体系は広がる。個人も学問の発展と似て、発見、気付きの度に、分化して、より大きな体系になる。

理論の体系ができることを知る人には、ごくごく当たり前のことだ。ヘーゲルはそれが内面でも起きることを明らかにした。何も難しくはない。ヘーゲルは、理性の体系をわかりやすく示した。彼こそが理性の最高峰なのだ。

哲学は、それ以降は学んでもしょうがない。不要だ。私は、いろいろ読んだのだ。ヘーゲル以後の哲学を。『不安の概念』(キルケゴール)は、もう不安というはっきりしないものを扱うから、それは哲学の体系としては劣る。心理学の分野であって、哲学ではない。

マルクスは、理性ではなく、社会論を扱う。理性(科学の体系のことや論理学)と社会論は、別個の学問だ。だのに、別の観点から理性を批判して、得意げになっていた。馬鹿である。彼の弁証法も点検すると、インチキとわかった。そもそも、マルクス経済など間違いだらけの社会論しか書けない者が、精密に何一つ正しいことなど書けはしないのだ。中身も薄かったから、最初だけ読んですぐに捨てた。

間違いだらけの書物を時間をかけて読むほど、人生にムダなことはないからだ。

要は、哲学は、ヘーゲルでおしまいなのだ。それ以後の探求は、もっぱら社会だ。なんとかジョン・スチュアート・ミルの『自由論』だ。社会論は、内面の探求、つまり哲学ではないのだ。

確か、その後の思想家として、フロイトも出てきた。が、彼は心理学では画期的だが、学びに足る理性は示してない。

そんなこんなで、高校時代は終わり、理性がなんたるかみえ、そして、大学に入り、君の探求は変わる。

posted by たすく at 21:35| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

精神次元の話 脳神経の発達度合い

精神次元の話 脳神経の発達度合い

精神の段階は、見た目でわかる。目の輝きが段階ごとに違う。だいたい6次元以上の人たちは、目が白く輝く。7次元以上は、白く大きな目が強い。

では、5次元は?
茶色く、やや鈍い色をしている。いや、目ではなく、肌が。ブランド好きの人たちの肌は茶色いことが多い。

なぜ目の輝きが違うか?
私は精神の段階ごとに、よく使う脳神経が違うからだと思っている。霊能者は、瞑想のある段階、第三の眼の位置に近いところをよく使う。そのように、精神の段階ごとに、ふだん使う脳の位置が違うのだ。

段階ごとに、脳の神経状態を、私は見せられたことがある。確かに、発達度合いが段階ごとに違った。これは、いずれ脳科学で明らかになるだろう。
posted by たすく at 21:13| Comment(0) | 精神次元 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

精神の段階をつきとめる

 精神の段階をつきとめる

 あなたの精神は何次元だろうか?
 これは簡単に判定できる。精神は5-8タイプしかないからだ。あなたの価値観と一致するものを探してみよう。

 精神が7-10次元の人は、『全ては理性。法則』だと考えている。

 人間は感情の生き物だ。これは4-5次元の人の考え方である。

 ブランドや格好良いスタイルがよい。これは5次元の前半の人の考え方だ。

 主観と客観があって、人は主観して持てない。これは5次元の後半がよく言うセリフだ。

 知的で明るいものが好きだ。世界は合理的なものであふれている。これは6次元以上の視点だ。

 私は暗い芸術が好きだ。これは5次元後半の人の発想だ。

 私の理性は単純ではない。これは8次元の精神の人だ。

 すべては理性である。これは9次元の精神の発想だ。

 日本の思想家に興味はない。これは7次元以上の人である。日本人の思想家で、7次元未満のものが幅を利かせていて、合理性に欠けるため。

 デカルト、カントやヘーゲルの理性論はよくわかる。自分とマッチする。これは7次元以上の精神である。

 世界は混沌としている。これは5次元前半の発想だ。

 経験則は個人の体験なので、特殊な法則である。理性の段階の人は、経験則すら一般法則に位置づけられる。

 価値観の優劣は争う意味がない。これは馬鹿の発想である。5次元前半の人は、価値間を比較するだけの才能がなく、すぐそれを諦める。

 経験則は主観である。これは5次元前半の者がよく口にする。6次元の人は個人の哲学を言わなくなる傾向が強い。

 これらを読んで、自分がどのタイプかがみえてきたはずだ。理性タイプでなければ、6次元以下である。
posted by たすく at 18:29| Comment(0) | 精神次元 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

精神次元の話 高い精神を体験するには?

精神次元の話 高い精神を体験するには?

精神の向上は、自らの心をみつめて、間違いを正しいゆくうちにたどりつく。 が、精神のタイプそのものが変わるには、子供から青少年の時期にしか、そのタイミングがない。大人になって凝り固まってからでは、自らの精神のパターンをいくら分析して、修正をしても、根幹から変わることはない。

一度精神成長が止まってから、より高い精神にけっして生きてなれない。としても、高い精神を感じることはできる。擬似的にそうなる方法は、いくつかある。

 私は3つ知る。1つは瞑想で階梯をのぼることだ。2つ目は、エネルギー療法である神経を発達させることだ。3つ目は、老人の心理を体験することだ。20歳以降の発達テーマは、10次元以上の精神と同じだ。実際に、精神タイプは変わらなくても、その年令相応の関心はもつことができ、その年令の精神型になる。

瞑想で、『空』や『高い段階』を擬似的に体験することはできる。ただこれは、高い段階の意識を簡単になぞるだけである。精神そのものがその高い段階の精神に、なることではない。瞑想して、考え方が突然、合理的になった人などいない。それまでの価値観を変えなくて、新しい景色を見ることができる。

高い段階の瞑想をして、全ては理性で法則だと、細かく上の世界の哲学を語りだした人はいないのだ。彼らはかいま見ることしかできない。より上の段階は、なぜそんな論理をもつのか。それは本人が悟ってそうなったわけではないから、理解できない。

次にエネルギー療法で高い段階を感じ取ること。これも瞑想と同じで、軽く高い精神を感じ取る。その高い精神に心からなることはない。それまでの精神の段階で、少しだけ高い視点を得るのである。

20歳以降の発達心理を体験する。これは高い段階の精神を体験している。が、なぜその年齢でそんな見地になるのか。その必然性を語ることはできない。というのは、自己喪失を3-21歳までに体験して、そこで精神が止まった。自分の課題をみつけて、その答えを見出す。それを続けないと、上のテーマなどわかりはしないのだ。

小学校から中学、高校と算数を習うから、大学の数学も理解できる。いきなり大学の数学など勉強しても、その法則の理由を説明できるわけがない。

このように、人は、高い段階の精神を感じる方法が、3つはある。他に、高い段階の精神の人が書いた本を読むなどするのも手である。上の段階の人は、君とはまったく違う価値観にもとづいているはずである。そこに気づくことが大切である。
posted by たすく at 18:15| Comment(0) | 精神次元 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする