2017年02月22日

精神次元をあげたい僧侶たち ならば、チベットの瞑想を学ぶとよい

精神次元をあげたい僧侶たち

日本の仏教では、菩薩や如来の心になることを目指す。仏教における菩薩とは、大乗の発想で、大衆を救うという修業で得られる境地だ。

 自分の感情や欲望、煩悩を超えて、心を空にした上で、人としてなすべきことができる人をさすようだ。

 如来は悟りを開いた者というが、仏陀などしかできない。

しがらみや苦悩を消化できない者は、菩薩にはなれない。如来は、菩薩よりさらに進む。仏教には、細かいことがたくさんある。それは瞑想の階梯なので、私は詳しくないから省略する。

仏教は、瞑想の進み具合で、人の心の様を言い表す。瞑想には階梯(段階)がある。私は詳しく、覚えてない。が、だいたい空に至るまでの心理。空を過ぎた心理がある。

日本の仏教は、ほとんど『空』の心に至るまでの解説しかない。さらに深い瞑想の境地を学ぶには、チベット仏教を頼るしかない。中国の龍樹?は、年をとってから念願の曼荼羅を見た。それで覚者となった。

ゲルク派のチベット死者の書には、曼荼羅を見るまで、曼荼羅以後の経緯が事細かにある。チベットに、曼荼羅の砂絵の文化は、そういう段階まで進んだ者が大勢いて生じた。

ラマの高僧には、末期癌で激痛にあえぐ体でも、痛みを感じないように心を保てる。寒くても平気でいられるという技もある。遠視もできる。幽体離脱などお茶の子さいさいだ。たいていの人はLSDで幻覚を見ると発狂するが、彼らはなんら動じない。瞑想で見た光景と似るとそれを楽しむ。彼らは脳を高度にコントロールできる。

チベット仏教が、高等・大学の教本とすると、日本仏教は、中学の教科書のようだ。

密教の修行僧から聞いた体験をもとに、あれこれ理解しようとするのが大乗だ。現実に、その心の状態を体験してないから、教義ばかり増えてゆく。大乗の教えは、それ故、瞑想は深くならない。が、人の法、生き方に関しては、部分的に発達する面もある。

仏教は、瞑想の学問である。が、実は、瞑想は発達心理にも関係する。そういう面が明らかになると、仏教は見直されるだろう。やがて発達心理学は、仏教を凌駕するだろう。

posted by たすく at 22:58| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする