2017年06月22日

『世界はなぜ「ある」のか?』(ジム・ホルト、早川書房)の感想 その5 「神が宇宙を作った」という創造神仮説に対する彼の反論--ビッグ・バンを宇宙のはじまりとするのは「単純」、本当の宇宙は多宇宙だからね。ビッグ・バンはその全てのはじまりでない。

『世界はなぜ「ある」のか?』(ジム・ホルト、早川書房)の感想 その5 「神が宇宙を作った」という創造神仮説に対する彼の反論--ビッグ・バンを宇宙のはじまりとするのは「単純」

本当の宇宙は多宇宙だからね。ビッグ・バンはその全てのはじまりでない。

 神が宇宙を作った、という証拠が何一つないにもかかわらず、キリスト教徒達は創世神を信じる。西洋では、これに対する意見を言う決まりがあるかのようだ。彼も、これに言及する。

 彼は、面白いことを指摘していた。

 「創世記では、神は世界を無からではなく、「形なく、むなし」い地や水の混沌状態から創造した。」36頁

 彼によると、旧約に立ち返ると、ビッグ・バン理論と創生神話を重ねることは、間違いである。ビッグ・バンでは、ほとんどゼロに近い状態から、極小の宇宙が育成され、一気に巨大化する。そこに、「地や水の混沌」はない。神学者が、ビッグバンから宇宙を神が引き起こしたというのは、創世記の話と大きく食い違うのである。

 神は、混沌とした地面と水からこの陸地と海からなる世界を作った。創世神話を忠実に解釈すると、宇宙を作ったとは書いていない。

 彼が言いたいのはここだったろうが、省かれている。信徒達が恐ろしかったのだろうか。

 彼によると、

 「紀元二、三世紀ごろに教会の聖職者達は斬新な宇宙進化論を提示した。世界はその源となる既存の材料なしに、創造主たる神の言葉だけで呼び出されて存在するようになったと、彼らは宣言したのである。」36頁

 12-13世紀のユダヤ人哲学者のマイモニデスも「神は無から世界を創造した」と述べた。

 神が宇宙を作ったという説は、後世の聖職者や神学者の解釈である。聖書には神の言葉があるが、そこにはなく、神がそういったわけではなさそうである。

 だが、現代人の信徒達は、なぜか創世神話よりも、聖職者達の言葉を信じる。「神が宇宙を作った」と。これは天動説を昔の人々が信じたのと似ているのだが。

 彼は、神学者達が創生神話を科学的に裏付けるものとしてビッグバン理論を利用することを茶化す。

 「(ビッグバン理論が確かだと証明されつつあった時、) 聖職者達は喜んだ。聖書による創造説の科学的証明が、棚ぼたで手に入ったと思ったのだ。」46頁

 『ローマ教皇ピウス12世は1951年にバチカンで会議を開き、次のように宣言した。宇宙の紀元にかんするこの新しい説は「原初の御言葉『光あれ』を裏付けるものとなりました。それが発せられた瞬間、無からにわかに光と放射の海が物質とともに現れました…… ゆえに~創造主はおられます。~神は存在しておられるのです!』46頁

 で、彼はこのビッグ・バンが、神の存在証明になるという教会の見解にどう反論したか?

 本を読んだ時に、どこなのかメモしなかった。今探すとみつからない。最も反論になっているのは、ここだ。

 「もちろん、たったひとつの宇宙があり、その創造主がいるという推測は、数え切れないほど多い何十億という世界(宇宙)があるという推測よりも、極めて単純で容易に信じられる、とガードナーは書いている。そうだろうか?」280頁

 要は、そんな解釈は「単純」と彼は言ったのだ。残念ながら、肝心な反論はわかりやすく書かれてはいない。

 私がかわりに書こう。

 より多くの学者に支持されている現代宇宙論では、宇宙は一つではなく、たくさんある。多宇宙こそが、全宇宙である。宇宙は、無限に我々のような宇宙が含まれる。

 我々の住む宇宙がビッグ・バンで発生した。が、その瞬間から、宇宙全体が発生してはいない。よって、ビッグ・バンを宇宙(多宇宙)の始まり、とする考え(創生神話の現代版)は間違い。

 なお、多宇宙全体の始まりはまだみつかっていない。

 我々の宇宙のビッグ・バンはすべての宇宙の始まりでなかったのだね。だから、そこを全宇宙の原初としてはいけなかったんだ。バチカンは、間違えたね。
posted by たすく at 22:49| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月21日

『世界はなぜ「ある」のか?』(ジム・ホルト、早川書房)の感想 その5 セレクターと10次元との関係?

『世界はなぜ「ある」のか?』(ジム・ホルト、早川書房)の感想 その5 セレクターと10次元との関係?

 彼は、パーフェットとの会話の中で、多宇宙説を語る。

『ありうる宇宙の中で、なぜこの宇宙は存在するのか?』375頁

 彼は、粒子は確率的に存在するという量子力学の法則をもとに、宇宙はあらゆる可能性があると考える。

 ある元素、粒子が支配的になる宇宙は、どの程度の確率か? 私達の宇宙のような粒子構成になるのは、どういう確率か?

 という疑問が浮かぶ。で、彼は、セレクターという概念を出す。宇宙は、無限の種類のものがありうる。が、存在する確率が多いものによって、セレクター分けされる、と私は理解した。

 競馬でもよい。1等になる馬は、だいたい予想できる。2等になる馬もだいたい予想できる。とはいえ、それは確率的に決まる。

 1等になる確率が20%の馬が4頭いるとする。それを競争させると、1位がそれぞれの馬になる、という大きく4つの結果が出るだろう。それをセレクターによる区分と私は理解した。

 宇宙も同じで、発生する確率が1-2割という高い粒子構成のものが、4種あるとする。すると、宇宙は4つできやすい。これをセレクターの分類と彼は呼んでいるはずだ。

 これはひも理論の概念なので、ひも理論に詳しい人が説明してくれたらよいのだけど。

 で、ひも理論によると、宇宙は10次元あるという。10種類の高い発生確率の宇宙がある。それが一つの宇宙に同時にしえる。それぞれの次元は、素粒子の構成が違うはずだから、法則が微妙な異なる。

 これは容器にドロと水と氷を混ぜて撹拌すると、3層にきれいに分かれるようなもの。宇宙は、それぞれの次元ごとに、きれいに仕上がる。やや違うのだろうが。

 この場合は、可能性の違う宇宙でも、時空が異なる宇宙でもないのだが。私は現在、セレクターをこのように理解している。ここは、あまり正確とはいいがたいかも。
posted by たすく at 22:35| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月20日

『世界はなぜ「ある」のか?』(ジム・ホルト、早川書房)の感想 その4 彼は、自己と世界とのつながりをうまく考察していない


『世界はなぜ「ある」のか?』(ジム・ホルト、早川書房)の感想 その4 彼は、自己と世界とのつながりをうまく考察していない

 彼の認識不足による。古今の哲学者は、自己と世界とはどのようにつながっているか、様々に記した。

 カントは、目、耳、舌、皮膚、内蔵の感覚が外の世界をとらえる。それを、自己に伝える。自己とは理性的なおのれである。そういうことは書いていた。自己は頭の中に位置する。その時に、『悟性』というのが大事な役割で、私の理解では、視野に映る絵が何を意味するかを判定する機能だった。

 悟性は人みな共通だ。これは、脳科学における、『認識』の機能だと思う。イヌの絵を見て、人は「犬」と認識する。形からそれがなんであるかを区別することができる。文字を見て、それがどういう言葉かを認識する。パターン認識などとされるものだ。

 が、ジム・ホルトには、悟性の観点や感覚についての認識がかなり弱かった。彼の哲学は、「自己」と世界との関係については、かなり遅れた見解にもっていた。

 で、理性=自己とするのは、あっていた。それは現代では、論理的な知能とされる。コンピューターと人間の共通点がある。

 ここからは私の認識。

 目や耳、舌、皮膚自体が、自己の一部か否か?
 こう考えてみよう。目が見えない人、耳が聞こえない人もいる。彼らは自己がある。自律的に行動できる。よって、感覚器官は、自己の本質的な部分ではない。その構成要素の一つとはいえるだろう。感覚をもたなくては、外の世界とのつながりがなくなる。

 感覚によって、人は自己の世界における位置や、状態を知ることができる。

 例えば、夢の中で、人は自分は夢の中にいる、と認識する人もいる。が、それができない人は、その夢のシーンの中に、自分はいると思ってしまう。肉体・頭のある場所と、自己の位置が一致しない時もある。

 感覚した場所、目で視えた景色。人は、そこに自分がいると思いこんでいる。

 彼にはこうした視点が欠如しているから、「自己」が何によって構成されているか。自己はどうして世界と関係をもてるか。そこはこの本ではわかりづらい。


 追記--ついでに書いたが、お蔵入りしそうなので、残す。

 内的な感覚--直感、内蔵の感覚なども、自己(理性)にとっては、外部とのつながるものだ。感情も同じだ。感情は、動物に付随するものだ。感情がほとんどない人間もいるが、彼らにも自己はある。

 というわけで、自己とは何かをつきとめて、感覚を取り除くと、最後に残るのは、理性的な自己である。自己とは、理性的なものだ。

 で、次に、理性から悟性を取り除く。悟性とは、映像から意味を識別する能力だ。悟性とは感覚に意味づけする機能だ。文字が読めない症状の人は、ある面で悟性の能力がかなり弱い。が、自己は保っている。悟性も、自己の本質的な部分ではない。

 このようにすると、自己には、悟性(映像や音に意味を見出す才能)が必須とはいえないだろう。全くなくなると、困るだろう。が、それでも必ず、悟性が完璧似なければ、いけないものでもない。

 このようにして、「自己」とは何を限定することができる。

posted by たすく at 22:03| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする