2017年07月07日

憧れの叡智を手に入れた人の現実

すべての叡智が手に入ったら?
仏教の瞑想家がずっと憧れてきたこと。仏に出会い、叡智を手に入れる。瞑想して奥深く心に入り、神仏の境地にたどりつき、一体化して、叡智があふれるようになること。素晴らしい。

 しかし、現実は、そんな安易ではない。叡智を手に入れると、何もかもが手に入るとか、神のごとく賢くなれるとか、万能の才を宿すなどという幼稚な幻想は禁物だ。

この過程には、一つ間違いがある。人間は、知らない叡智を自分のものとして語ることはできない。高度な技能は教えられ、学んで、はじめて身につく。叡智を使えるようになる。神仏と一体化して、即身成仏すると、すべてを悟り、あらゆる分野の達人にはならない。赤ん坊は一瞬にして、大人になれない。そこは幻想だと諦めよう。

ともかく、叡智は手に入れることはできる。何も瞑想しなくても、囲碁の叡智は、人工知能に探求させると、一年ほどで獲得できた。今やアルファ碁はどんな名人よりも強い。

私は実は、叡智を1/3ほど手に入れた。囁き声で聞こえ、固有名詞がわからないのだが、およそのことはわかるのだ。未来も過去も。ただ詳細なことがわからないために、細かいことがわからない。あいまいな叡智だ。それでもたいていのことはある程度わかる。それで10年くらい自分を鍛えている。

叡智を手に入れた人間は、どういう問題に直面するか。そういうことがたくさんわかった。それを明かそう。

まずは叡智を手に入れても、万能になれない。それは他人の知識であって、自分の才能ではない。

叡智の保有者は神仏でもよいが、実際は宇宙人、人間の調査員である。正直、叡智をもつ者は神や仏に限定する必要はない。あらゆる質問に的確に答えられたら、その辺のおじさんでも十分だ。近所の人に、そんな才能も知識もないのだが…

私に叡智を教えるのは、別世界の人間、宇宙人、天国の霊(上位)だ。ここから何がわかるか? 人間の疑問やほしい情報は、たかがしれているから、あまりに高度な存在でなくても、よい、ということが一つ。

私の知りたいことは、地震はいつどこで起きるとか、今日は何を食べたらよいか、とか。生活に密着した些細なことばかりだ。たまに、自分が病気にならないための栄養素、薬は何か、と高度な医者にしかわからないこと。いつ事故があり、どのように回避できるかなと未来の情報がある。それらの情報は私が手に入れることはできる。

毎日、そんな叡智に触れていると、生活全般をよくする方法、よく生きるこつを身に着ける。人類の仏教者、すべての人が憧れる叡智を手にして、そんなことしか質問しないの? わずかにしか向上できないの? と質問したいだろう?

 そうだ。私は欲がないので、儲かる株、当たり馬券などは尋ねないのだ。尋ねても、はっきり聞こえないから、質問しない。まだ手を出してないだけだが。はっきり聞こえたら、いずれそれも尋ねる。

ただ、どんなに叡智があっても、人として逃れられない運命はあって、不幸、死、現代医学では治せない病、経済の影響などは甘受しなくてはならない。叡智を1/3手に入れた私でも残念ながら、犯罪者からは毎日、深夜に嫌がらせを受ける。老いも止められない。

 貯金は私が手に入れる叡智の質が今は低いから、貯めることは無理だ。が、私の力量があがると叡智の質も高くなり、稼げるようにはなれるだろう。

 だが、私を愛する人も限られているから、それを増やすことはできない。台風が来たら、台風を消すことなどできないので、家の中でじっとする。夜にも起きることはできないから、眠る。

 叡智を手に入れても、社会の技術や理論の限界があり、それを超えたことはできない。未来の叡智は新しい技術を開発して、実用化するまでは、それを使えない。叡智を身につけると、全て解決できるというのは、幻想だ。

 叡智を手荷入れても、技術を手に入れたわけではなく、知識を知っただけなので、あいかわらず社会の技術的な制約は受ける。これも発見である。

 精神は精神は高みにあがるか?
 私はしていない。叡智を手に入れると、難問で壁にぶつかっても、短時間で答えが得られる。高度な文明で育つのと似る。あらゆる教育を受けることができるから、成長は止まらなくなる。一般的に人類は21世紀文明の教育によって、精神の成長の限界がある。それは軽く超えられる。

しかし、だからといっても、精神的に当代ナンバーワンになれるか? といえば疑問だ。叡智による個人レッスンを受けたとしても、人類の最高の天才に上回るのは、至難の業だ。彼らは、天賦の才が備わっている。産まながられの天の才の教育を受けるのが天才。こちらは10-20才でやっと出会えた叡智から特別レッスンを受ける。そんな遅すぎる教育では、さほど向上はしないのだ。

 あらゆる競技を見たらよいが、子供時代から神童ともてはやされた天才児が、世界の中でも抜きん出るトップになる。大人になってから、神仏の助けをえて、ようやく始めたようなのは、いくら本人が賢ぶっても、鈍才か秀才程度にしか、極められないのだ。才能の差は、歴然とある。

 はっきりいうが、過去の仏教者で、彫刻家や画家などの天才を超えた者はいない。仏教者が当代の政治家よりも政治に長けたという話はない。

 精神も同じだ。世の中、地球ナンバーワンとかいるのだ。そんなのは生まれた時から歪みなく、正しい見地をもち、理性に満ち満ちている。あらゆる事柄、精神、事象を正しく理解する。大人まで迷っていた人物が正しい指導を受けたからといって、そんな精神の天才たちに勝てるわけがない。

 近代の仏教のあらゆる経典を学んだ者が、ブッダより秀でるようなことは、なかなか起きない。

 叡智を受け取れるようになっても、結局、個人の才能、社会の限界などを超えられない。生活がさほど向上して、人類の疑問のいくつかを言葉の上だけで解決する。それがせいぜいだ。たちまち金持ちになる人はいるだろう。それで満足しよう。

posted by たすく at 21:39| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

理性的な人たちの考え方

 理性とは何か?
 日本人で、理性がなんたるかを正確に語れる思想家は、過去にいなかった。理性を理解するのは、今でもごくわずかだ。

 簡単には、デカルトの数学的な自己のことだ。経験や感覚から離れて、頭の中に存在する自己。それが理性だ。

 この理性は、自己の純粋なものだ。よって、あらゆる脳がある動物に備わる。犬、猫、ライオン、ネズミにも理性はある。

 理性とは、論理的な思考をさす。で、理性のうち、悟性、つまり感覚したものが何かを判定する脳の機能は、理性に含めないものとする立場が、カントだ。

 「文字」を見て、「モジ」と読み、文字という言葉の意味を知る事。それは理性とはいわないのがカント、ということ。

 でも、彼は悟性は、理性に含めたのではなかったか? そうかもしれない。が、ヘーゲルになると、理性に含めないのだ。

 ヘーゲルは、理性の発展を示した。学問を発展させて、体系を大きくすることだ。これは、自己の理性の成長なのだ。

 彼は、理性の内実(学的な認識のこと)を理性から分離した。すると最後に残ったのが、論理学だった。理性は、論理学のことというのが、彼の結論だったはずだ。

 ヘーゲルがそこまで正確に理性を理解したかは、私は彼の本をきっちり読んでないからわからない。だが、理性は、論理学のこと。頭の中にある「論理回路」だということが、わかった。

 これで、ヘーゲルはついに理性をつきとめた。それで、西洋では、理性の探求は終わった。それ以後、理性を語ることがもてはやされることはなかった。理性を語る男がかっこよくみえる時代は、近代で終わったのだ。

 そうして、200-300年すぎて、理性だけをもつコンピューターが出現した。論理回路が理性なのだ。

 ここまでが基本。

 理性を猿がもつ理由
 理性によって、経験から学ぶことができる。一度失敗したら、それを避ける。あれは条件反射ではないのだ。そういう脳をもつ動物は理性をもつ。

 猿、カラス、猫、チンパンジー、鳥、魚、クジラも理性をもつ。

 理性と感情
 これを論じるのは幼稚な人たち。感情は、論理的な判断を妨害する。

 また感情は、一定のパターンで生じる。ある言葉をきっかけに怒る。怒りは、恐怖で消える。そういう意味では、感情もまた認知の機構の一種なのだ。

 背中を意識すると、感情が怒り、不安が消え、落ち着く。感情は物理的なものでもある。

 理性と対立するものではない。並立するもので、感情は精神のサブである。

 感情で大事なのは、喜びである。心と体の欲求を満たしているか。喜びの大きさはそのバロメーターである。

 感情に似ているものに、いやな予感というのがある。ぱっとみた時に、原因がはっきりしないが、悪いことが起きると感じるもの。これは、形の判断なのだ。碁打ちは、詰碁を見て、直感的に解けるかどうか、判断できる人がいる。そういうパターン認識の一種である。

 理性的な人とはこんなことが、わかりきっている人たちのことである。
posted by たすく at 20:57| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする