2017年10月07日

愛は精神論の中心になれない -- 愛は精神の基準になりえない

 愛していれば、偉大な精神というのはおかしい。
 
 すべてを愛することは、本人がそのように思い込むと達成できる。愛の初期、好きになるという意味で、考えよう。人はなんでも、無理やりに好きになることはできる。美しいもの、かわいいもの、異性、正しきもの。そういうものを自然と私は好きになる。さらには、悪徳霊能者、犯罪者、敵も。私はそういうものは嫌うが、好きになろうと努めることはできる。そして、頑張って視野を高くもつことで、慣れたら、それら『クズ』を愛することもできる。上手な感情コントーロールで、人は全てを愛することができる。
 
 その時、全てを成長させる才能があると有能だ。が、ただ感情を管理して、他を愛せるようになっただけでは、無能である。才能ある者がすべてを愛すると、大勢が恩寵を受けるだろう。が、無能な小者がすべてを愛しても、何の役に立たない。価値がない。
 
 すべてを愛せる人でも無能なら、価値がなく、有能なら価値がある。つまり、愛ある人でも能力の違いによって、最低の人間と、ほどほどの人、最高の人間がいるわけだ。

 愛をもつ人が、必ずしも最高の人間ではない。愛を身に着けた人が、偉大というのは、正しくはない。

 偉大さはその人物の才能によるからだ。正しくは、才能が高い者が偉大、というべきである。愛の有無を人の偉大さの基準にするのは間違いだ。正しくは、才能や成長、能力で偉大さ、人の良さを判定すべきである。
 
 人間を正しく判定できる"基準"のほうが、より根本的な精神的な価値である。愛よりも、"能力"、"成長"のほうが、より基礎的な精神で、重要である。
 
posted by たすく at 21:55| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

愛が重要でない理由-- 感情が精神の基礎にならない


愛が精神の基礎に入らない理由は?

 愛は感情的なものだ。それが、精神論の中心になることはおかしいからだ。私が理解したのは、好きの究極が愛ということ。もし、愛が第一で、それを身につけるべく強制されるなら、人は必ず周囲、環境、地球を好きになり、ついには愛さなくてはならない。愛をもつ人が高い精神なら、精神的に、人、もの、自然、動物、惑星、宇宙を好きになる者ほど偉大、ということになる。
 
 まずすべてを愛するというのが根本的におかしい。人間は、好き嫌いがあるからだ。好き嫌いの感情を正しくもてる人は、素晴らしい。正しいもの、素晴らしいもの、美しいものを人は好きになる。逆に、悪を憎み、醜いもの・間違いを嫌う。こういうのが正しい感情だ。
 
 が、愛や好きばかりだと、嫌うことがゼロになる。全てを好きになることは不可能なのだ。人は愛せても、悪そのものは、愛することはできない。悪いことは嫌わなくてはならない。悪を好きになったり、悪であることを愛するのは、異常だ。そんな悪しきものを愛するように無理強いすると、人は混乱する。

 よい人物になろうとして、嫌いなものを好きと思うように努力したことはあるだろう。それを長く続けていて、最期には無理だと気づいたはずだ。醜いもの、悪しきもの、自分に合わないもの、その部分はけっして好きにならない。そのようにできている。
 
 正しいもの、よいものを好む。悪しきもの、悪を憎み、嫌う。それで善悪の価値観と感情が正しい関係になる。これを崩すと、人は混乱する。
 
 すべてを愛する(好きになる)のは、感情の歪みであり、それは正しくない。
 
 
posted by たすく at 21:50| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする