2019年07月15日

瞑想の科学 『空』とは

 実際にここでは、瞑想の段階をつきとめている。仏教ではそれが中心に語られる。それを発達心理の段階と対応させている。発達心理は、思想史とも合致する。
 
 私の発達心理論では、1段階に小さな段階が10つある。前半と後半が各5小段階ある。小段階の前半は5か6のどちらかだ。今は5のほうでやっている。瞑想の階梯について、小さな段階10を透視して、つきとめている。透視しているので、科学とは言いにくい。瞑想の解明のほうがよいかもしれない。
 
 『空』とは、仏教の悟りの代表のような境地だ。私の理解では、感覚、欲望など世俗の思いとは離れた境地である。が、何もないわけではなく、自己がいる。その自己をみつめると、理性的、数学的、論理的な自己が存在する。仏教では、それを『想いだけの世界』と呼ぶ。
 
 瞑想では、『空』がつく境地は『空無辺処』だ。虚空の無限性を観ずる境地だ。無色界の4つの境地の一つで、下から1番めである。他は、上に識無辺処、無処辺処、非想非非想処である。

無色界
空無辺処 - 虚空の無限性を観ずる境地
識無辺処 - 心の作用の無限性を観じる境地
無処辺処 - 一切のものがないと観じる境地
非想非非想処 - 想が有るでもなく、ないでもない境地
 
仏教では、瞑想は段階をこの順に進むということが述べられている。仏教の経典の多くは瞑想の教科書なのだ。この前の境地には大円境智、平等性智、妙観察智、成所作智があった。
 
大円境智 - 大きな丸い鏡があり、曇り一つない清浄な境地
平等性智 - すべてのものが平等であると観じる境地
妙観察智 - 物を識別して、区別する境地
成所作智 - 物事の作用(動き)を観じる境地
 
 つまり、成所作智の次の境地が空無辺処だ。『空』は段階5(理性)の境地だ。理性の境地とは、感覚や言葉から離れて、自己の中に法則を感じ取ることだ。

 『虚空』というのは、それまで何かが動いていたが消えた空間をさすと思われる。『虚』はそれまで何かあったものが今はないという意味と解せるからだ。何かの運動が消えて、到達する境地である。運動は段階4にみるものだ。その次の段階5の理性では、運動から法則を得るのが課題なので、あう。運動が消えて、法則が残るということを観じる。
 
 段階5の理性を無色界とするのも、よい。無色界では、欲も物質もなく、精神の作用のみが働くからだ。理性者は、そういう人物である。すべては合理的に考え、理性(理論的な思考)だけがある。
 
 透視では、空無辺処は段階5である。ただし、これはこれまでの段階のはじめの境地とは異なり、段階5の末の境地である。なぜそういえるか?
 
 無限性があるからだ。瞑想で『無限』とはそれがあらゆる場所、何重にも感じられることだ。あるもの(虚空=この場合は法則)が視界のすべてに、どこまでも感じられる。段階の初期では、新しい視点は一部にしか感じられない。その段階をあがるほどに、その新しいテーマを視界の左右前後、上下、それに複雑、重層的に感じられるようになってゆく。そのように全てにわたって無限に感じられるようになるのは、段階の末である。よって、空無辺処は段階5(理性)の末期に感じられる境地である。

 空の境地とは、本当は何もないというわけではない。何もないと感じた時に空に到達する。はじめは何もないと観じるのだが、そのすぐあとに、自分の『想い』があることに気づく。それは数学的、合理的、論理的な思考である。いや、世界の諸法則が、視界に新たに感じられる。

 その空の段階では、法則だけを純粋に観じる。簡単にいえば、合理的な理論だけの世界観、つまり科学的な世界観のことだ。工学に通じた人が、あらゆる視野の全方位に細部に渡って、科学の法則を感じ取る。それに近い。実際には、透明な光の美しいタペストリー(法則、数学のグラフのような曲線)を、物一つずつに感じる。一つ一つはそれである。
 
 それがあらゆる方向に無数に感じられるのが空無辺処の境地である。空無辺処が、大乗仏教で語られる『空』とやや異なる。それは大乗のは、『空編』あたりを空と考えている節があるためだ。空無辺処は、その『空』を無限に感じられるので、末期なのだ。あるものが無限に感じられるのは常に、段階の末期だから。

 『空』の境地に入るプロセス-段階4末から段階5に突入する様
 空に到達するには、欲も感覚、物質も飛び越える。それは、段階4(運動)から、段階5(理性)に入るまでのプロセスだ。そこを詳しく解説しよう。
 
 段階4(運動)の末では、しだいにあらゆる視界に様々な運動を見いだせるようになってゆく。自分の周囲、社会、空間全体に運動を感じられるようになる。それがだんだんと広がり、宇宙の運動をすべてとらえる感じになる。そして、無限に入り、暗い世界になる。この時には、段階5にあがっている。
 
 そして、『溶ける』(チベット仏教では段階の末になり、次にあがる時の様相を溶けると言う)と、明るい世界に入る。目前は暗い世界(段階4運動の末)だ。運動が、今度は全ての物体の内に入り込んでいる。それまで段階3では運動のプロセスを見ていたが、それが一つのもの、すなわち法則として認識できる。その状態に到達したら、後ろを向く(瞑想で心の中で後ろを見る)と、明るい世界に入っていることに気づく。

 すべて、それまで見てきたものは、虚空に溶けてしまう。『虚空に溶ける』とはチベット仏教の表現だ。段階の末期にそれが起きると、次のステージにあがる。

 今回は運動の一つずつを自ら行っているようにそれまで感じていた。が、その運動すべてを遠くから眺めているような感じにかわる。実物の猫を、『猫』と名付ける。その名前は言葉の上の概念だ。それまで運動の実際を見てきたが、より上の段階では、運動の名前のみを言う感じである。運動の個別性は、消えてなくなってしまうのだ。それらを『溶ける』とチベット仏教では表現するらしい。
 
 新しい境地になってから、安定するまではまだ暗い。まだ感情や感覚、欲はすぐに消える。それまでずっとみていた段階4のテーマ『運動』も消える。真っ暗な中で、何もないかのようだ。が、自分はいる。(ここはデカルトの我思うがゆえに我あり)の境地と同じだ。ここまでが、溶けるの説明。そして、ここまで大乗で語られる『空』に入る時に体験するものだ。
 
 仏教はこの後、空の境地に入ると、空、想いだけの世界という簡単な説明となる。が、西洋思想はここからが詳しい。
 
 空の境地では、自分の中を覗く。何ないが、世界を観察する自分がいる。想いがある。自分は存在している。その自分の中を覗くと、新しい段階の世界となる。ここはデカルトによると、数学的な自己、合理的な自己、論理的な自己などがある。段階5は、理性なのだ。
 
 というわけで、大乗の『空』は段階の初期の境地なのだ。わかっただろうか。空は、単に瞑想の段階であり、自分は理性であると感じる人の境地なのだ。『空』の思想から様々な哲学的な論争が、仏教の中では繰り広げられたが、あまり意味はないのだ。単に、人間の理性の性質についての議論なのだ。万物に適用できるはずもない。
 
 唯識論のように、教説で、無がどうのこうとか、そういうのはあまり意味がない。理性の性質として、そういうものだという理解で十分だ。理性は、瞑想の段階では『法則』だ。が、もっと深く理解すると、『論理学』的思考で、PCが発達した今では、論理演算のことだ。論理演算のことだ。論理演算を基礎とする思考様式や世界観のことだ。わかりやすいものでは、科学的な世界観のことである。
 
 段階5(理性)に到達して、その世界観に慣れてくると、現代の科学の世界観を理解しえる。それは段階5の精神をもつ人だけに可能なようだ。そうでない者たちは、科学はより上の世界観であり、本人の哲学とは異なるものとなる。
posted by たすく at 11:05| Comment(0) | 瞑想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする