2017年06月16日

『世界はなぜ「ある」のか?』(ジム・ホルト、早川書房)の感想 その2 結局、彼はどう死--自分が無になる不安を解決した?

『世界はなぜ「ある」のか?』(ジム・ホルト、早川書房)の感想 その2 結局、彼はどう死--自分が無になる不安を解決した?

 前回、彼が世界がある根拠--けっして無にならない多宇宙(他の可能性の宇宙を含む)を説明した。世界(宇宙)があるのは、そういう宇宙のけっしてなくならない、という性質からくる。これは彼の見解である。

 で、あとはこの本にとっては、末節となる。

 日本人的なくだらない議論、「そもそも自分がいなくなると、自分が感じる世界もなくなる。自分にとっての世界もなくなる。」という自己リアリティ論に、彼はどう反論したか?

 この自分が存在しなくなると、世界もなくなる、というのは仏教の亜論である。これを得意気になって語るのは、仏教に染まっている。全共闘にこの手はよくいるのだが、西洋思想かぶれのくせに、仏教徒の本質を隠せないのが、おかしい。西洋人はこういう話を一笑に付す。

 人間が1人死んだところで、宇宙にとっては片隅のちりが一つなくなった程度で、宇宙はほとんど何も変わらない。宇宙がそれまであり、これからもある。

 彼はそう言ってはいたが、彼の言葉ではこうなる。彼は「自分の世界」は唯我論者の主観的な世界とみなした。それは、客観的なものではない。(438頁から)

 彼は、それは、「特定の人間に局在した意識」で、トマス・ネーゲルの「どこからでもないところからの眺め」と考える。それがどうした? そこは、はっきりと読み取れない。

 彼は、この論は東洋の哲学からきていることを知っており、虚無論の支えの一つなので、西洋の思想、現代思想を用いて、一生懸命に反論する。だが、わかりやすいものではない。反論は、いま一つ要点を押さえきれていない。

 私なら、こう反論するところだ。「君がいなくなっても、世界は存在する。」 本当はこれで十分なのだ。

 説明する。

「自分が存在しなくなると、世界がなくなる」という言葉には続きがあって、「君はそうなると全てを失う。よって、君が存在しなくならないようにすることが、君には大切だ。」という生き方の話につながる。

 彼は、こちらを知らないようで、そこは明示されてなく、反論が及んでいない。それで彼は不完全なものになった。

 彼は世界が存在するかどうかを説明して、事足りると考えた。「世界が存在すること」ばかりを説明した。それが本の主旨だ。が、それは仏教の無の話の反論にはなっていない。彼は、後半の仏教は生き方についての否定は、やっていない。

 つまり、彼は宇宙がけっしてなくならないと説明した。が、それを知っても、「自分が死んだら、全てが終わる」と思う人の慰めにならない。そんな自分が無になることを恐れる人は、宇宙がどうなっても関係ないからだ。

彼がいくら西洋の思想で、世界はなくならないと力説したところで、

「唯我論的な幻想だとわかっている。しかし、幻想だと認めても、そのような印象はぬきがたく残る。」と無になる不安をまだ消せない。

 この不安を弱めるための彼はいう

「私が無意識の闇から突然生命に目覚めた思いも寄らない瞬間より前に、世界はなかなか首尾よくやってきたし、私が闇に戻る避けられない瞬間が訪れたあとにも、なかなか首尾よくやっていくに決まっている。(444頁)」

 自分が死んだあと、この宇宙は今まで通りうまくゆく。だから、心配いらない、という。

 西洋哲学を駆使したわりに、彼のまとめは陳腐でありきたりである。ジム・ホルトが哲学者になれないのは、こういう論の整理がよくできてなかったところと、彼の答えは平凡すぎること(哲学者らしいものになっていないこと)に原因がある。
posted by たすく at 23:05| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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