2019年06月28日

瞑想の科学 - 自己紹介

瞑想の科学 まずは自己紹介

 私は瞑想を20年研究してきた。日本の仏教は、初期の段階がよくまとまっている。ラマの「死者の書」(ゲルク派でないもの「現代人のための チベット死者の書 」(ロバート・A.F.サーマン))は、様々な覚醒にいたる方法が書いてあって、詳しかった。私は独自に研究して、いろんなことがわかった。瞑想の段階は、精神の段階と似ること。それは発達心理テーマと一致すること。チャクラは、なんと下の段階であることなどなど。未知の発見が多々ある。それを埋もれさせては世界の損失だ。

 瞑想のすべての段階、瞑想によって精神の段階を上げる方法などを、これから書いてゆくつもりだ。瞑想を科学する。私の理論によって、瞑想は僧侶の独壇場ではなくなり、科学の光が当てられるようになるはずだ。これは、瞑想を多くの市民に開く試みである。

 対象は瞑想の上級者である。彼らですら、知らない真実をいくつか記す予定である。
 
 自己紹介
 私は瞑想歴は20年ほどだ。我流で師についてない。透視能力者でもある。第三の目を開いたのが30-40代だったと思う。チャクラも感じられる。ここでは、瞑想の科学的な解明をめざす。瞑想の段階をつきとめる。仏教に瞑想の段階がある。それはラマ教が最も詳しい。ラマ教は、何百年と瞑想して、それを明らかにして、密教として伝承してきた。それらを参考にしつつ、私の体験から、瞑想の段階をより合理的に明らかにする。

 私がなぜ、瞑想をより解明できるか? 瞑想はこころの中を覗くものだ。私はもちろんそれもできる。が、それは平凡である。しかし、私は、特定の段階の精神、その世界観を視野に投影して、理解する技をもつ。私は景色を見ると、自分の心の状態がわかる。箱庭療法みたいなものだ。それを駆使することで、特定の段階をより正確につかむことができる。それが僧侶との違いだ。そこから得られた知見だ。

 もう一つ、私は自分の調べたい段階の心の状態にできる。機械的に。その技によって、私はどの段階も正確に調べられる。それが違いだ。また、ラマ僧のような者たちとも知り合いだ。彼らにいろいろ秘伝を教えてもらうことができる。だから、ラマの秘技をいくつか紹介できる。

 現在、瞑想は上が大脳で40-60段階とわかっている。下は、よくわからないが、脊椎、間脳か小脳の段階があり、もっと下もあり、70-100段階くらいあり、かなり多い。それらを今後、説明していこう。
 
 「空」の精神について画期的な理論を示そう。従来何もないとされてきたが、実は、その段階は「理性」なのだ。空の段階の哲学というものもある。空の段階以降もいくつかあり、それを明らかにする。

 私は、瞑想の効用を大事にする。感情をコントロールする方法、解離症(痛みなどを感じない状態にする)になるこつ、第三の目の開き方、霊聴はどう聞くか? 一度見たものを完全に記憶する方法、冷水に入っても体を暖かくする方法(これはやせる方法でもある)なども紹介したい。密教にそれを習得する教えがある。弟子にしか伝わらない。そういうのをみつけてきて、説明する予定だ。
 
 瞑想して、精神の段階をあげることも、具体的に教える予定だ。本当のことをいえば、青少年の間に精神の成長が止まってから、瞑想しても、あがるのはわずかだ。精神の段階はいかに測定できるかも、示そう。
 
 これから、私は瞑想にかんする新しい理論を、多々明らかにするつもりだ。密教に伝わるものもより合理的な(科学的な)見地で、解説する予定だ。

 以上
 
 ところで、瞑想を知ったかぶりの諸君に質問だ。答えられたら、君は優秀である。
 
質問 一般の人の心の段階を0としよう。チャクラは、それより上の段階か、下の段階か?
 
答え、下である。意識を下降させないと、チャクラを感じ取れないため。
 
質問 細かい段階を省こう。段階1は「体内(内蔵)」だ。段階2が「体の外、感覚(五感など)」とする。この順序でいけば、段階3は何か?
 
答え、「悟性」。感覚したものが何かを理解する段階だ。景色を見て、犬、文字などを区別すること。音を聞いて、声として意味を理解すること。そういう「認知」の段階である。知識、知性の段階ともいう。
 
質問 もうギブアップか? 段階4は何か?
答え、「運動」である。運動に関心がうつる。それまでは、時間が止まった状態で、外の世界を認知していた。が、段階4では、時間の流れをつけ加え、認識する。何が起きるか。それの起きたものは何か? を知る。過去から現在、未来を感じ取る。この段階では、人生を走馬灯のように眺めることも体験できる人はいる。「力」、「運動」、「行動規則」、「社会の運動規則」などを理解する段階である。
 
質問 では段階5は何か? 過去、現在、未来を見たら、次は何を感じる?
答え、「空」である。これは易しかっただろう。仏教書や瞑想の教科書にそう書いてある。走馬灯のように過去からの自分を見たあとに、空に至ると。中級の本にたくさん書かれてある。超能力を求めて、瞑想をあさった人には馴染みがあるだろう。

「空」は何もないわけではない。経験や感情、知識などと切り離された世界が広がる。それは理性の段階である。なぜ理性か? 仏教に説明はないが、デカルトがそこに気づいたのだ。何もないが、自己だけがある。空では、何もないがそれをみつめる自分がいる。同じである。わかるかな。私の考えは、仏教と西洋哲学を融合させている。

 そう、デカルトは「空」における自己を一歩詳しく「理性」として理解したのだ。デカルトは仏教の空理論を超えた。ここより、中国文明は西洋より劣ることになる。

 何? わからない。当たり前だ。ここにあることは、ラマが何百年と修行してみつけたことだ。通でもない君たちも、勉強しなくては、これら知識には触れないからだ。また、ラマ達でも到達しなかった見地もあるのだ。ラマは西洋哲学を知らなかったから、比較しなかったのだ。だから、「空」と「理性」が同一だと彼らは体感的には知ってるだろうが、言葉では知らないのである。しかし、百聞は一見に如かず。どちらの段階も、瞑想で体験すれば自ずと答えが出る。私は、瞑想の段階を機械的に、自動的に行ける。それは他人にも施すことはできる。

 空の段階を体験したあとに、理性の段階を体験して、比較すればよい。私と同じ結論が出るはずだ。瞑想で特定の段階を読者が体験できるようなプログラムも盛り込む予定だ。楽しみにしてほしい。

posted by たすく at 23:26| Comment(0) | 瞑想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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