2017年09月13日

「愛が全て」ではない--それはドラマでは愛する妻子を殺された者が、犯行動機として口にする言葉だ。

愛が全てではない 2

『愛が全て。』というのは、一般論として、本当に世の中で、『愛がすべて』という意味ではない。 妻や家族を自分は愛する。それが自分のすべて、という意味だ。

ドラマでは、犯罪者が犯行動機を語る時に、吐露する言葉だ。復讐で誰か男を殺した男。彼は捕まる。彼はなぜ犯罪をしたと刑事に追求される。すると、彼は自身に起きた不幸を悲痛に語る。

『私には愛する妻と子がいた。ある日、その男が家に忍び込んで、妻と子を手にかけた。私はそれ以来、彼を憎み、復讐を考えていた。私には愛が全てだった。』

これが、愛が全ての本当の意味である。愛が、精神論として最高の理論だとか、そういう意味合いではない。人間の価値観は、愛が全てである、ということでもない。

単に、家族の他に何も信じてないし、何ももってない。家族以外の誰のためにも生きていない。だから、愛が全てとなるのだ。

実に、背負うものが少ない責任感がない人間のちっぽけな価値観だ。まったく格好良くもなく、大人でもない。犯罪者の心根だから、自分勝手でもある。

他にも、『金が全てだ。』というのもある。金の亡者で、いつもお金を持ち、執着する。世の中、金しか信頼できない。人は裏切るが、お金は裏切らない。お金こそがすべて、という。視野の狭さはそっくりである。

愛が全て、というのはあるタイプの価値観だ。社会や親族を信頼しない。子や妻だけを愛する。愛する家族のためだけに生きるという信条なのだ。

この考え方がいかに狭いかを説明する。まず彼は、神のためには生きない。彼は神を実感しないし、尊いものだと考えない。神のために生きることに興味ないからだ。

この人物は親や親戚、友人のためにも生きていない。友情は愛情とは違う。愛する対象ではないからだ。

この人は、社会や国のためにも生きない。彼は、社会や国家がどうなろうと、自分と妻子の間が幸福なら、満足だからだ。

彼は、他人、社会、友人、親、親族、国家、人類、社会、神のために生きることはない。ただただ家庭のために生きる。そんな自分勝手な人間である。そういう小心者の価値観こそが、『愛が全て』なのである。

これでも、君は『愛はすべて(だった)』と復讐で捕まった犯罪者のように悲しく口走りたいのか?

 愛が全てと語るのは、妻子を失ったものたちだけでよい。大きなものを失って、立ち直れない時、彼らはそう語りたいし、それは認める。

 だが、精神論の大家がそれを語るのは、情けない。それは愛を絶たれ、喪失感が大きかった者の悲しみだ。妻子しか見えない者と同じだからだ。

もののわかった人は、愛がすべてと語るのは狭量にみえるから、やめておこう。
posted by たすく at 21:13| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月11日

愛はすべてではない。精神の一面にすぎない その論証

愛が全てではない

最近、「愛がすべて」と言い切って、何か優れた精神論を語ったように得意がるのには、がっくりだ。愛とは夫婦間にあるもの。恋人を愛でること。そんな一面的なものが、精神の全てとは、拡大解釈もひどい。

もし、そんな愛情に満ちた世界が、宇宙全体に広がるなら、それはそれで本人たちは幸せかもしれない。が、愛がすべてなら、愛がないところは無なのだ。そんな愛を受けない者は、存在価値がなく、この宇宙から消えてなくなることになる。

 愛というものは、この宇宙に存在するものの関係性の一面でしかない。愛は人間関係のあり方の一つだ。愛とは人間関係論だ。人間関係にいくら巧みでも、それが生き方のすべてではない。

 愛は人に付属するものだ。人あって、はじめて愛がある。人がなく、愛が先にありはしない。愛は、人やものなどなくては存在できない二次的なものなのだ。愛が全てではないのだ。愛が全てという考え方は、この例からも失敗している。愛をすべての事象に適用することは無理がある。

愛が全てという言い方はどこからくるか? 
それは特定の精神論を、全ての状況にあてはめてみようとする試みである。例えば、「人間は成長が全て」、「正しさこそがすべて」、「生きることがすべて」と言うこともできる。日本では、愛の論だけ発達して、「愛が全て」という言い方には慣れ、他には違和感があるかもしれない。

 しかし、「成長」、「正しい」、「生きる」は、それぞれ精神論で基礎的なものである。各論を拡張して、そういう見方もできる。「愛」だけが特別ではない。

 愛が全て は本当か?
 愛とは、自己愛、恋人、親、子、社会、人類、生物などにあてはめることはできる。地球愛といっているのもいる。欲求ある者には、何かを与え、それを満たすことも愛だ。自己犠牲なども愛だ。教育もある意味、愛だ。

このように愛をもって行動するのは、男女や人間関係の愛情を重視する人にとっては、素晴らしく思える。愛は、欲求を満足させることが基本だ。愛を行う時は、一つ一つの欲求を満たすこと。その部分が強調される。が、全てではなく、ミクロ的な部分なのだ。

愛ある場所では、本人はいつも満足、愛情を受け、幸福感に包まれる。それを優先する。愛は、幸福を目指すことに偏る態度ともいえるのだ。愛をすると、成長するとか、正義や分別、善悪を区別することが身につくとか、学力がつくという話ではない。女性は夫の愛を求め、家庭をつくり、子供を生み、幸福になる。が、大きな人間にはならないのは、こういう理由だからだ。

愛に専念すると、他の精神面がおろそかになる。正義や善悪を徹底はしない。愛の宗教であるキリスト教では、善悪の観点が弱く、悪魔という悪の極致がなぜかいまだにのさばる。また正義も独善的になりがちで、共産主義みたいなすぐに悪と区別できるようなものも、台頭した。

また、愛は自分周囲の人間関係を良くすることに努力しやすい。が、社会全体をよくしようとする意欲は湧きにくい。国家愛や人類愛は、個人主義の西洋ではあまり根付かなかった。

愛をする時は、与える側になる。教育する側になる。すなわち、愛を行う本人は自分の地位が相手より高いと考えがちになる。何も学んでいないのに、そう思いがちだ。愛することばかり考えると、学ぼうとはしなくなる。向上心が低くなる。成長の意志が低い。自己愛は弱くなりがちなのだ。

このように、愛を最高の精神論にすると、善悪と正義、成長心、社会性が低下する。正義や善悪などの分別と社会改革が弱く、人に分け与えることだけが好きな成長しない人間となる。

もともと、愛は精神論の一つ。精神の一面でしかない。それを全体に適用することに無理がある。愛に偏ると、以上のような欠落が生じる。

実は、愛の人には結末がある。愛を志す人特有の弱点で、彼の成長はしだいに鈍くなる。。どんどんランクが落ちる。やがては、特定の精神に矮小化される。一つはっきりといえることは、「成長」を重視する人に、愛の人は勝てない。

愛は精神の部分論だ。愛が精神、生き方の全てと思わないほうがよい。愛を総合的な精神論だとは考えてはいけない。愛だけを実行したら、人間は成長できると思わないほうがよい。
posted by たすく at 21:46| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月28日

優れた精神論は上から順に、『究極、最高、完璧、完全』、『成長、発展、発達』、『正しさ、正義』、『よいこと』、『愛』

 より精神的になろうとする時、精神で差別化する時、何が大事だろうか?
 
 自己愛は、自分を欲求を適切に満たすということになる。過度でも過小でもなく。さて、これは何の精神理論か? むさぼるなという話、欲望はいけない、という話となる。
 
 正しくあること。これを実践すると、人よりも優れることは確かだ。間違ったことをしないよう心がけると、人は正しい方法を学び、正しく行動しなくてはならない。それはその人の能力をあげる。
 
 成長することを目指すこと。低い成長を嫌い、高度成長を目指す。実に、文明が発展する。人は大きくなれる。成長を目指すことは、大事だ。
 
 愛すること。人を愛するのは、よいことだ。が、自分を大切にしない傾向がある。幸福を好みすぎる。愛してばかりしていると、人間関係はよくなる。それは小さく幸福な社会を作り出す。それはそれで、幸せだろうが、大きく精神は成長しない。
 
 よいことをする。これは大事だ。いつもよいことをしていると、どんどん自分の技能があがる。善行をするは社会的には大切だ。自分は毎日よりよいことをする。それで、の自分の成長も起きる。社会もより発展する。
 
 究極、最高を目指すこと。完璧であろうとすること。これは精神的に欲張りな人たちで、最も成長する人種だ。一番を狙うこと。目標を達成したと本人が思った時に、更なる高みを見いだせないと、成長が止まる危険性はある。が、それさえ、解決できると、この人種はどこまでも早く伸びる。社会も最高に発展する。
 
 今日は、この4つの精神を見た。『愛』、『正しさ、正義』、『成長、発展、発達』、『よいこと』、『究極、最高、完璧、完全』。
 
より優れて本人と社会を成長させるのは、順に、『究極、最高、完璧、完全』、『成長、発展、発達』、『正しさ、正義』、『よいこと』、『愛』である。
 
 このように、文明と個人の発展を犠牲にしてまで、あなたは、愛(自分の幸福)を貫こうとするつもりだろうか?
posted by たすく at 22:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする