2017年12月25日

ラストクリスマスの本当の意味

ラストクリスマスの本当の意味

クリスマスとはイエスが生まれた日。仏教の多い日本で特にありがたがるものは何もない。またモーゼやマホメットの弟子たちにも、何の記念日なのか、とんと見当がつかない。
西洋の休日である。この日に精神的なことが起きる理由は、何もない。冬の12月25日に、何か精神がとりわけ目覚めることはない。クリスマスにはサンタさんがプレゼントをくれる。それが待ち遠しい。そういう現実があるのみ。

記念日を祝うということから、様々に感慨にふけることもできる。日本人には、イエスの誕生日に何を思ったらよいか、とんと見当がつかないと思う。私もそうだ。

ブッダを例に考えみたい。ブッダの生誕日は4月8日。私の2日前。ブッダは生まれてすぐに7歩き、右手で天を、左手で地を指し、『天上天下唯我独尊』と唱えた、という。赤児がしゃべれない。赤児は指が開かない。わかりやすいつくり話だ。戦後の日本では、ブッダの生誕日は誰も祝わない。だから、聖者の誕生日に何を祝うか。私には想像つかない。

誕生日を祝うのは、家族か友達か、天皇だ。天皇の場合は12月23日で日本の祝日だ。わかりやすい。海外では王の誕生日を祝うこと。それと同じこと。宮殿前で、祝う。日本を見守ってくれることを。

そうか。イエスにもそういうことを願うのか。

イエスは優れた偉人なので、それが人類に生まれたことを、祝う日でもある。彼のおかげで、日本人はさほど恩恵はないが、西洋は法の支配(ユダヤ教は法、慣習やルール)が中心の生活から、理性や良心に基づく生き方に転換できた。社会に縛られない自由な精神を持つことがイエスから始まった。

イエスの生きたのは『社会法と精神』が分離する時代だった。彼はその思想の変化をキリスト教で、やってのけた。ユダヤ法の生き方を『律法』として斥けた。すると、心からは国家が消え、精神(理性や良心)が残った。宗教は、彼からはそういう精神的なものが中心になっていったのである。つまり、イエスが宗教から、国家面を分離した。

それがずっと今日まで続いている。国家と宗教は別々のものと思われている。精神は、社会のルール・法とは別に存在するものだと思われている。イエスが宗教を内面に限定したともいえる。

 イエスはそういう思想の分岐点で、新しい宗教の概念を提唱した。それは画期的なものだった。彼は優れた思想家だった。思想史では、イエスはそういう位置づけだと覚えておこう。

 さて、もうすぐキリスト教の終末がくる。聖なる宗教の中で、イスラム教の終末は再びマホメットが現れる頃でまだ遠い先。ユダヤ教のそれも21世紀初等にこない。キリスト教だけがこの時期に終わる。ヨハネの黙示録の予言が成就して、バビロンが倒壊して、ハルマゲドンが起きて、イエスが再来して、終わる。それは21世紀初頭という説が有力だ。

 つまり、キリスト教だけが終わる。すると? 宗教の終末では、世界の破滅が起きると予言される。実際、一宗教の世界しか滅ばない時、それはその宗教が消えることを意味する。キリスト教の終末では、キリスト教のみがなくなる。新しいイエスが現れて、キリスト教を終わらせる。

 どういうことか? 西洋の文化が大きく変化する。思想や宗教は、優越の法則が働く。より優れた宗教が、より劣るものを駆逐する。新しきイエスがキリスト教を超えるよりよき宗教を唱え、キリスト教はそれに従い、瓦解する。イエスの2代目ほうが、優れた法を説けるようである。

 西洋では、革命的な出来事に違いない。それは共産主義のような全体主義の独裁政治に支配されることではなく、何か画期的な思想による変化なのだろう。

 が、キリストに依存してない日本人にはあまり関係がない。それで何か変わるのは? 新しいイエスが最高の聖人の地位にとってかわり、イエスを落とすのであるから、彼の生誕日であるクリスマスを祝う習慣がなくなる。プレゼントをもらうことが楽しみの祝い日がなくなる。これは信仰心の薄くなった日本人にとっても、一大事である。

では、その最後のクリスマスは、いつになるのだろうか? 今日はふとそんな未来に思いを馳せた。それ以後は、クリスマスのイエスの価値は激減することから、新しいイエスがバチカンを従属させるその前年である。

 これこそが、本当のラストクリスマスの意味である。ワムはそれが去年に来たと言っているが、それは間違いである。ラスト・クリスマスとは、新しい法がキリスト教に入れ替わり、キリスト自体が聖人として祝うことが特に必要がなくなる日が来る。そんな未来、クリスマスを最後に祝うということである。

 「ラスト(Last)」は昨日と訳してよいのですが、キリスト教に納得しない、受け入れる気がしない日本人にとっては、やはり最後と考えたいですよね。では、
posted by たすく at 21:25| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月07日

愛は精神論の中心になれない -- 愛は精神の基準になりえない

 愛していれば、偉大な精神というのはおかしい。
 
 すべてを愛することは、本人がそのように思い込むと達成できる。愛の初期、好きになるという意味で、考えよう。人はなんでも、無理やりに好きになることはできる。美しいもの、かわいいもの、異性、正しきもの。そういうものを自然と私は好きになる。さらには、悪徳霊能者、犯罪者、敵も。私はそういうものは嫌うが、好きになろうと努めることはできる。そして、頑張って視野を高くもつことで、慣れたら、それら『クズ』を愛することもできる。上手な感情コントーロールで、人は全てを愛することができる。
 
 その時、全てを成長させる才能があると有能だ。が、ただ感情を管理して、他を愛せるようになっただけでは、無能である。才能ある者がすべてを愛すると、大勢が恩寵を受けるだろう。が、無能な小者がすべてを愛しても、何の役に立たない。価値がない。
 
 すべてを愛せる人でも無能なら、価値がなく、有能なら価値がある。つまり、愛ある人でも能力の違いによって、最低の人間と、ほどほどの人、最高の人間がいるわけだ。

 愛をもつ人が、必ずしも最高の人間ではない。愛を身に着けた人が、偉大というのは、正しくはない。

 偉大さはその人物の才能によるからだ。正しくは、才能が高い者が偉大、というべきである。愛の有無を人の偉大さの基準にするのは間違いだ。正しくは、才能や成長、能力で偉大さ、人の良さを判定すべきである。
 
 人間を正しく判定できる"基準"のほうが、より根本的な精神的な価値である。愛よりも、"能力"、"成長"のほうが、より基礎的な精神で、重要である。
 
posted by たすく at 21:55| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

愛が重要でない理由-- 感情が精神の基礎にならない


愛が精神の基礎に入らない理由は?

 愛は感情的なものだ。それが、精神論の中心になることはおかしいからだ。私が理解したのは、好きの究極が愛ということ。もし、愛が第一で、それを身につけるべく強制されるなら、人は必ず周囲、環境、地球を好きになり、ついには愛さなくてはならない。愛をもつ人が高い精神なら、精神的に、人、もの、自然、動物、惑星、宇宙を好きになる者ほど偉大、ということになる。
 
 まずすべてを愛するというのが根本的におかしい。人間は、好き嫌いがあるからだ。好き嫌いの感情を正しくもてる人は、素晴らしい。正しいもの、素晴らしいもの、美しいものを人は好きになる。逆に、悪を憎み、醜いもの・間違いを嫌う。こういうのが正しい感情だ。
 
 が、愛や好きばかりだと、嫌うことがゼロになる。全てを好きになることは不可能なのだ。人は愛せても、悪そのものは、愛することはできない。悪いことは嫌わなくてはならない。悪を好きになったり、悪であることを愛するのは、異常だ。そんな悪しきものを愛するように無理強いすると、人は混乱する。

 よい人物になろうとして、嫌いなものを好きと思うように努力したことはあるだろう。それを長く続けていて、最期には無理だと気づいたはずだ。醜いもの、悪しきもの、自分に合わないもの、その部分はけっして好きにならない。そのようにできている。
 
 正しいもの、よいものを好む。悪しきもの、悪を憎み、嫌う。それで善悪の価値観と感情が正しい関係になる。これを崩すと、人は混乱する。
 
 すべてを愛する(好きになる)のは、感情の歪みであり、それは正しくない。
 
 
posted by たすく at 21:50| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする