2017年12月28日

私の闘い --- 他人よりも精神的に優れること

私の闘いの一つ
精神の優劣である。私は世界中に、自分より優れた精神をもつ者を探す。そして、私が劣っているものを知り、彼らの知恵、技、理を見抜き、それを身に着ける。彼らは精神で私より力がある。何が優れているのだろう。それを彼よりもうまくなる。そうやって追い抜く。こうやって、一つずつ、高めてゆく。

専門家に今は勝てない。無数にいる。それはあとの課題だ。
今は、精神といわれるものだけを鍛えておく。
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2017年12月25日

9-11才は認知(悟性)をテーマにする段階

9-11才は認知(悟性)をテーマにする段階

これまでの研究から、発達心理は、感覚をテーマにする6-8才、力(運動神経)をテーマにする12-14才があると明らかにした。

では、抜け落ちている9-11才は何か?
ようやくわかった。人は、1,感覚したものを2,認知する。そして3,実践(運動)にうつす。
見たものが、何であるかを認識する。文字を見て、読み方を知る。何の記号かを理解する。漢字が何であるかを区別する。

外から入ってくる情報が、感覚。その形を情報処理して、「認知」する。そして、運動へとつなげてゆく。

つまり、「感覚」の次のテーマは「認知」である。哲学用語では、「悟性」である。

9-11才のテーマは「認知(悟性)」だ。
悟性とは、犬の形を見て、犬か猫を区別すること。文字が何の文字かを知ることだ。漢字を区別することだ。視界の感覚では、形を分類することだ。音を聞き分けるということもある。
この「認知」は、専門書に詳しく書かれている。そこは今は語れない。が、認知であることは間違いないように思える。

感覚的な人を蔑み、また論理的なでい者達は「9-11才」のテーマを一生もつ人たちである。彼らの特徴は、「定義」にこだわることだ。彼らのテーマは「定義」そのものであるからだ。

彼らはだいたい多数の言うことに従う。正確な定義は、だいたい多くのケースで一致することで決まるからだ。

彼らは、このように認知に手いっぱいなので、解釈にもこだわる。どのように認知すべきかが彼らには大事だからだ。それが「論理的」だとか「運動的に自然なものか」はさほど重要ではない。

彼らは一見、知的な装いをする。感覚にとらわれない。ただ、どのように認識すべきかをいつも考えているからだ。だが、深くはない。

このように彼らのテーマを「認知(悟性)」とすると、彼らの特徴と一致して、その多くを説明できる。これは、正しいのではないかと思っている。

ようやく、私は発達心理の子供時代の欠落を埋めることができた。これで、発達心理表は、大きく完成に近づいた。

1-2 ?
3-5 内的感覚?
6-8 感覚
9-11 認知(悟性)
12-14 運動(力、運動神経)
15-17 論理(理性)
18-20 社会
21-23 空間(建築、)
24-26 二次元(平面、絵・写真)
27-29 1次元(音楽、音、言葉、文)
以下略。
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ラストクリスマスの本当の意味

ラストクリスマスの本当の意味

クリスマスとはイエスが生まれた日。仏教の多い日本で特にありがたがるものは何もない。またモーゼやマホメットの弟子たちにも、何の記念日なのか、とんと見当がつかない。
西洋の休日である。この日に精神的なことが起きる理由は、何もない。冬の12月25日に、何か精神がとりわけ目覚めることはない。クリスマスにはサンタさんがプレゼントをくれる。それが待ち遠しい。そういう現実があるのみ。

記念日を祝うということから、様々に感慨にふけることもできる。日本人には、イエスの誕生日に何を思ったらよいか、とんと見当がつかないと思う。私もそうだ。

ブッダを例に考えみたい。ブッダの生誕日は4月8日。私の2日前。ブッダは生まれてすぐに7歩き、右手で天を、左手で地を指し、『天上天下唯我独尊』と唱えた、という。赤児がしゃべれない。赤児は指が開かない。わかりやすいつくり話だ。戦後の日本では、ブッダの生誕日は誰も祝わない。だから、聖者の誕生日に何を祝うか。私には想像つかない。

誕生日を祝うのは、家族か友達か、天皇だ。天皇の場合は12月23日で日本の祝日だ。わかりやすい。海外では王の誕生日を祝うこと。それと同じこと。宮殿前で、祝う。日本を見守ってくれることを。

そうか。イエスにもそういうことを願うのか。

イエスは優れた偉人なので、それが人類に生まれたことを、祝う日でもある。彼のおかげで、日本人はさほど恩恵はないが、西洋は法の支配(ユダヤ教は法、慣習やルール)が中心の生活から、理性や良心に基づく生き方に転換できた。社会に縛られない自由な精神を持つことがイエスから始まった。

イエスの生きたのは『社会法と精神』が分離する時代だった。彼はその思想の変化をキリスト教で、やってのけた。ユダヤ法の生き方を『律法』として斥けた。すると、心からは国家が消え、精神(理性や良心)が残った。宗教は、彼からはそういう精神的なものが中心になっていったのである。つまり、イエスが宗教から、国家面を分離した。

それがずっと今日まで続いている。国家と宗教は別々のものと思われている。精神は、社会のルール・法とは別に存在するものだと思われている。イエスが宗教を内面に限定したともいえる。

 イエスはそういう思想の分岐点で、新しい宗教の概念を提唱した。それは画期的なものだった。彼は優れた思想家だった。思想史では、イエスはそういう位置づけだと覚えておこう。

 さて、もうすぐキリスト教の終末がくる。聖なる宗教の中で、イスラム教の終末は再びマホメットが現れる頃でまだ遠い先。ユダヤ教のそれも21世紀初等にこない。キリスト教だけがこの時期に終わる。ヨハネの黙示録の予言が成就して、バビロンが倒壊して、ハルマゲドンが起きて、イエスが再来して、終わる。それは21世紀初頭という説が有力だ。

 つまり、キリスト教だけが終わる。すると? 宗教の終末では、世界の破滅が起きると予言される。実際、一宗教の世界しか滅ばない時、それはその宗教が消えることを意味する。キリスト教の終末では、キリスト教のみがなくなる。新しいイエスが現れて、キリスト教を終わらせる。

 どういうことか? 西洋の文化が大きく変化する。思想や宗教は、優越の法則が働く。より優れた宗教が、より劣るものを駆逐する。新しきイエスがキリスト教を超えるよりよき宗教を唱え、キリスト教はそれに従い、瓦解する。イエスの2代目ほうが、優れた法を説けるようである。

 西洋では、革命的な出来事に違いない。それは共産主義のような全体主義の独裁政治に支配されることではなく、何か画期的な思想による変化なのだろう。

 が、キリストに依存してない日本人にはあまり関係がない。それで何か変わるのは? 新しいイエスが最高の聖人の地位にとってかわり、イエスを落とすのであるから、彼の生誕日であるクリスマスを祝う習慣がなくなる。プレゼントをもらうことが楽しみの祝い日がなくなる。これは信仰心の薄くなった日本人にとっても、一大事である。

では、その最後のクリスマスは、いつになるのだろうか? 今日はふとそんな未来に思いを馳せた。それ以後は、クリスマスのイエスの価値は激減することから、新しいイエスがバチカンを従属させるその前年である。

 これこそが、本当のラストクリスマスの意味である。ワムはそれが去年に来たと言っているが、それは間違いである。ラスト・クリスマスとは、新しい法がキリスト教に入れ替わり、キリスト自体が聖人として祝うことが特に必要がなくなる日が来る。そんな未来、クリスマスを最後に祝うということである。

 「ラスト(Last)」は昨日と訳してよいのですが、キリスト教に納得しない、受け入れる気がしない日本人にとっては、やはり最後と考えたいですよね。では、
posted by たすく at 21:25| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする