2017年06月17日

『世界はなぜ「ある」のか?』(ジム・ホルト、早川書房)の感想 その3 なぜ彼は、「自分の世界」がなくなることに真摯に答えようとしない?

『世界はなぜ「ある」のか?』(ジム・ホルト、早川書房)の感想 その3 なぜ彼は、「自分の世界」がなくなることに真摯に答えようとしない?

 彼は、自分の世界がなくなり無になること、死ぬことについて、真摯に答えようとはしなかった。彼は、それを「唯我論者の主観的な世界」、「特定の人間に局在した意識」、「唯我論的な幻想」と、哲学・思想的にはあまり価値がない議論のように扱う。西洋人らしい。

 なぜか?
 それは「自分の世界がなくなり、無になること」といくら哲学的なテーマのように語られても、単に死への不安である。キリスト教文化においては、聖書に答えがある。誰もが、キリスト教の答えは知る。死んで霊になる。霊は永遠で、自分の世界がなくなることはない。そう考えることはナンセンスである。それは霊の世界への無知からくる。

 それで、哲学や物理学で論じてもしょうがないから、適当にあしらえ、と考えためだろう。彼は、それで直接的に答えなかった。

 彼は 、死への不安と似たような大きな問題で、思想的にも価値がある問題に、吸い寄せられた。「世界が消失する不安」を慰めるほうを選んだと推測できる。
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2017年06月16日

『世界はなぜ「ある」のか?』(ジム・ホルト、早川書房)の感想 その2 結局、彼はどう死--自分が無になる不安を解決した?

『世界はなぜ「ある」のか?』(ジム・ホルト、早川書房)の感想 その2 結局、彼はどう死--自分が無になる不安を解決した?

 前回、彼が世界がある根拠--けっして無にならない多宇宙(他の可能性の宇宙を含む)を説明した。世界(宇宙)があるのは、そういう宇宙のけっしてなくならない、という性質からくる。これは彼の見解である。

 で、あとはこの本にとっては、末節となる。

 日本人的なくだらない議論、「そもそも自分がいなくなると、自分が感じる世界もなくなる。自分にとっての世界もなくなる。」という自己リアリティ論に、彼はどう反論したか?

 この自分が存在しなくなると、世界もなくなる、というのは仏教の亜論である。これを得意気になって語るのは、仏教に染まっている。全共闘にこの手はよくいるのだが、西洋思想かぶれのくせに、仏教徒の本質を隠せないのが、おかしい。西洋人はこういう話を一笑に付す。

 人間が1人死んだところで、宇宙にとっては片隅のちりが一つなくなった程度で、宇宙はほとんど何も変わらない。宇宙がそれまであり、これからもある。

 彼はそう言ってはいたが、彼の言葉ではこうなる。彼は「自分の世界」は唯我論者の主観的な世界とみなした。それは、客観的なものではない。(438頁から)

 彼は、それは、「特定の人間に局在した意識」で、トマス・ネーゲルの「どこからでもないところからの眺め」と考える。それがどうした? そこは、はっきりと読み取れない。

 彼は、この論は東洋の哲学からきていることを知っており、虚無論の支えの一つなので、西洋の思想、現代思想を用いて、一生懸命に反論する。だが、わかりやすいものではない。反論は、いま一つ要点を押さえきれていない。

 私なら、こう反論するところだ。「君がいなくなっても、世界は存在する。」 本当はこれで十分なのだ。

 説明する。

「自分が存在しなくなると、世界がなくなる」という言葉には続きがあって、「君はそうなると全てを失う。よって、君が存在しなくならないようにすることが、君には大切だ。」という生き方の話につながる。

 彼は、こちらを知らないようで、そこは明示されてなく、反論が及んでいない。それで彼は不完全なものになった。

 彼は世界が存在するかどうかを説明して、事足りると考えた。「世界が存在すること」ばかりを説明した。それが本の主旨だ。が、それは仏教の無の話の反論にはなっていない。彼は、後半の仏教は生き方についての否定は、やっていない。

 つまり、彼は宇宙がけっしてなくならないと説明した。が、それを知っても、「自分が死んだら、全てが終わる」と思う人の慰めにならない。そんな自分が無になることを恐れる人は、宇宙がどうなっても関係ないからだ。

彼がいくら西洋の思想で、世界はなくならないと力説したところで、

「唯我論的な幻想だとわかっている。しかし、幻想だと認めても、そのような印象はぬきがたく残る。」と無になる不安をまだ消せない。

 この不安を弱めるための彼はいう

「私が無意識の闇から突然生命に目覚めた思いも寄らない瞬間より前に、世界はなかなか首尾よくやってきたし、私が闇に戻る避けられない瞬間が訪れたあとにも、なかなか首尾よくやっていくに決まっている。(444頁)」

 自分が死んだあと、この宇宙は今まで通りうまくゆく。だから、心配いらない、という。

 西洋哲学を駆使したわりに、彼のまとめは陳腐でありきたりである。ジム・ホルトが哲学者になれないのは、こういう論の整理がよくできてなかったところと、彼の答えは平凡すぎること(哲学者らしいものになっていないこと)に原因がある。
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2017年06月14日

『世界はなぜ「ある」のか?』(ジム・ホルト、早川書房)の感想 その1

『世界はなぜ「ある」のか?』(ジム・ホルト、早川書房)の感想 その1

彼は子供の頃から死んで無になることが、怖かった。そこから、彼がなぜかゆきついた問いが、本題だ。
 この本は、西洋哲学らしい議論がたくさん登場する。それを勉強した人には、楽しい。私は面白く読んでいた。

 まずは彼のみつけた答えは哲学者や神学者らしいものではなく、現代物理学に基づく宇宙論のものだ。

 彼はビッグバン理論を信じる。それは原初の宇宙が無から確率的に誕生するという量子力学的なものだ。彼は、現在の量子力学の法則にうさんくさいものと思わずになぜか信じる。私にはそこが非常に残念だ。

 アインシュタインが粒子の発生確率に疑問を呈したのに、彼はそこを動かしがたい事実とした。

 で、ここの下は私の理解だ。

 素粒子は、発生確率ごとに存在するはずで、それは無限である。そこから、彼は素粒子の多いパターンによる宇宙(セレクター)が無限にありえる、と推測する。そのうち、確率的に多く発生する素粒子がある。それが結合して、安定化する。それはいくつかの種類となる。そんな宇宙が支配的になるという。10次元宇宙論や可能性ごとの宇宙論である。

 話を戻す。彼の説では、

 たった一つの宇宙ではなく、我々の住む宇宙以外にも他に、無限に宇宙がある。彼によると、時間も宇宙の内在する。無限にある宇宙が、より大きな"宇宙"だ。それは素粒子のパターンごとの宇宙以外にも、我々の宇宙、他の宇宙、過去の宇宙も、未来の宇宙も、他の可能性の宇宙も含まれる。それはけっしてなくならない。

 我々の宇宙が発生する以前は、現在の量子力学に基づくビッグバン理論では、"無"に近かった。我々の宇宙が唯一という発想だ。

 が、彼はより大きな視野をもち、宇宙物理学の見地から、他に無限の宇宙があるとする。で、それら全ての宇宙を含むものを"宇宙"と考えると、"無"というものがなくなる。宇宙はある(なくなったことはない)という結論にになるそうだ。

 彼の話ぶりからすると、無はかなり限定的で局所的になるようだ。

 これは私の理解かもしれないが、彼は必然的にこういう結論になることを明確に書かなかったから、私がかわりに書いたまでのこと。

 私としては、死んで無になる、というありきたりの問題を少しつつくような幼稚な日本人的な議論でないので、とてもよかった。

 これはまた続きも書く予定だ。
posted by たすく at 21:34| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする