2017年04月07日

直感的に生きる人が最も正しくある理由 -- 6-7次元以上の哲学

直感的に生きる人が最も正しくある理由

 これは直感に従い、理性的に生きている人を対象にした話だ。

 この手の人は、自分の運命をより緻密に生きることができる。答えが出ないことは、自分で考えても迷う。そんな時は、直感が指し示すことを行う。すると、その日にやるべきことができる。それを続けると、いつかは大きなことができる。

 心の導きに従うこと。この手に人にとって、それが正しい生き方だ。この方法で、よりよく生きられる。

 まず頭であれこれ考えた結論。それ以上のことができる。直感に従うと、思いもよらぬ発見がある。それで限界を突破して、自分を成長させる。

 だから、導きに従うことが、正しい生き方だと。

 他の生き方(知的型、感情型)とはどこが違うのか?

 一、運命に忠実な点では、直感タイプは他とあまり変わらない

 厳密に考えよう。直感に誘導される生き方。これは、結局、運命に従う。運命を超えることはなく、運命以下にもならない。自分の神が立てた計画。その人生を歩む。

 他の生き方、自分の考えに固執して、時折、生じる激しい感情で、自分の道を決める不器用な生き方。彼らは、鈍い生き方だ。が、彼らが、彼らの神が用意した運命を超えることはなく、運命以下の生き方をしているとも思えない。彼らも、また運命に従う。

 より感性的な人もいる。好き嫌い、考えが少なく、感情、好嫌いなどで動く人たち。彼らもまた、神が用意した人生を歩む。彼らもまた運命に縛られている。

 まとめると、直感タイプ(理性)と思考タイプ(知的)、感情タイプ(感性)はそれぞれの方法で運命に従う。この点で違いはない。直感タイプが他よりも、運命に忠実ということはない。感情タイプが他よりも、運命から離れているわけでもない。

 ニ、創造性、成長の点では、直感型は優れている

 感情タイプは、何をするかをよく考えることができない。よいと感じるもの、悪いと感じるものを、すぐにやりたがる。それをするのがよい、という深い考えはない。それで正しいことを考えてみつけるものは、不得意だ。

 知的タイプは、物事を考えて、何をすべきかを見いだせる。このタイプは、知識が指し示すことなら、できる。秀才にはなれる。だが、発想の飛躍がない。直感をあてにしないからだ。だから、知的限界、思考の枠組みからなかなか抜け出ない。

 だが、直感タイプは、どうにもこうにも行き詰まった時は、何も考えないことにして、アイデアがひらめくのを待つ。すると、しばらくするとよい案が思い浮かび、物事を解決できる。そのように、同じことを考え続ける人々よりも、問題解決能力が高い。

 知的タイプが一つの所にとどまっている間に、直感型はさらに上の世界へとたどりつく。直感型は、このように一つずつのアイデア、優れる。それが全般にわたる。

 直感的に生きるのが正しいのは、こういう従来の学問や考え方、習慣の限界を突破できるからだ。それほどに、問題解決の能力として、優れているからだ。

 まとめ
 感情型、知識型、直感型は、共に運命を生きる点では、差異がない。直感型が、他よりも人生に忠実に生きることはできるが、感情的な人は粗いナビゲートによる人生であり、本当は差異がない。

 直感的に生きる人は、問題解決能力において優れている。考えに行き詰まった時に、直感に従う。すると、それまで考え方では思いつかなかったようなアイデアを得て、自分のテーマを解決できる。それを日常的に行うことが他よりも、素晴らしい。また生き方としてより正しい。
posted by たすく at 21:20| Comment(0) | 精神次元 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月10日

瞑想は、効率が悪い

瞑想は、効率が悪い

賢くなろうとして、智恵を求めて、瞑想する。そんな目的で瞑想するのはおかしい。

学生はしないと思うが、テレビを見ながら勉強すると、学習効率が落ちる。2-4割は頭に入らなくなる。テレビを用いた学習は、通常の5割ほどしか身につかない。

では、ラジオは? 私はラジオで勉強したことはないが、3-4割くらいではないだろうか。ラジオで英語はとてもじゃないが、勉強できない。まったく身につかないからだ。

では、瞑想では? 
 静かに勉強できる? それはそうだが、目をつぶって、ノートもなく、教科書もない。それで何を勉強するのだろうか? 教材を何も与えず、社会から隔絶した場所、例えば、監獄にぶちこむ。すると、その人は、ムショでひたすら犯行を反省するだろう。やがて、彼は何か悟るだろう。

 とはいえ、わずかな知識しか身につかない。

何かテーマをもって、それを考えたい人が、時々、部屋にこもって、1人、あれこれ考えを巡らせる。こういう学習テーマが決まっている瞑想は、どの程度の効率か?

ふつうに勉強するのを100とする。彼は目をつぶって思索するから、ノートと鉛筆も持たない。だから、何か新しいこと思いついては、それを記録しないから、忘れる。それを繰り返し、同じようなことを何度も考える。あまり考えが進まない。

2次方程式を暗算で解くのは、至難である。慣れた人でも、三次方程式は暗算で解けないだろう。囲碁を、碁盤と石なしで、打つようなものだ。将棋を盤と駒なしで対局する。これは、とても効率が悪い。3-4割だろう。

瞑想中に、メモするのはいい案である。が、メモがあっても、効率はふつうの学習並みにならない。教材がなく、すべて自分で考えるから、1人で参考書と教科書なしに、数学を学ぶようなものだ。その効果は、本人の興味を満たす程度である。効率はすこぶる悪い。15-30くらいだろう。

さて、私は透視しながら、いろいろ考える。瞑想すると、頭に物事がクリアに浮かんできて、それをもとに様々なことを考えられる、と過大視する人はいる。が、透視して、何かを見ながら考えても、考えは進展しない。私は学校などで習うお金がないから、自由連想するしかないのだ。

 PCの画面にくっきり見えるなら、そっちのほうがよい。もっと楽に、思考が進む。本があるとなおさらよい。瞑想は、単に、よい本がないからやっている。それがあれば、瞑想じみたことはしないのだ。

高僧が想像力豊かで、様々に思い描くことができて、深い思索ができる。そう考える人は、期待しすぎだ。学校で習うほうが3倍はよい。

瞑想は、通常の学習の2-3割未満の効率である。時間をムダにしたくない人は、専門学校や教室で習うことを勧める。
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2017年03月06日

精神次元をあげる目的は?

精神次元をあげる目的は?

 世界中のあちらこちらで、精神向上に励む。仏教徒は仏陀に近づこうとして、キリスト教徒はイエスの精神になろうとして。ヒンズー教徒は高みに入るために。

 私は比叡山の周辺、京都市近郊の枚方に住んでいた。街角に道徳の標語が掲げられ、この地でも叡山の阿闍梨が尊敬された。そんな風土で育ったから、心を見抜く才ある私が、人格を極めようとしたのは自然なことだった。

 多くの求道者の目的はこんなものだ。仏教では、心迷いがとれ、深い洞察をさらさら語り、人格者になり、徳に満ち、大勢に尊敬され、慕われることがかっこよく、それを目指す。瞑想と修業で人格者になれる。が、自身の哲学を根本から変えないと、精神は表面がきれいになるのみで、心のシステムそのものはクリアにならない。

 キリスト教では、修道会に入り、神に愛される人格になり、何一つ罪を冒さないで、天国に入ることが素晴らしく、それを目指す。日本人は、愛を行うことがキリスト教徒の努めと思う。ここでは、キリスト教徒独特の戒律が厳しくあり、精神の向上は望むべくもない。神に愛されることを追求する。

 精神次元をあげると、あらゆる智恵を習得するわけではない
 修業して、悟ると叡智を手に入れる、という迷信がある。神につながっても、そうはならない。宗教家は、現代の科学者ほどに知識はない。彼らはレオナルド・ダ・ビンチのような万能でもない。仏教の最も極めたラマ僧が、あらゆる知識に秀でるわけではない。囲碁、剣道、諸学に、精神家が必ずしも通じているわけではない。

 精神修業とは、精神論を習得することだ。精神が高い人ほど、精神論に強くなる。感情、性善説、性悪説、理性、社会性など、高い者はすらすら答えられる。これらに答えをもたない者は、精神的には挫折しており、そう優れてはいない。高い次元の精神は、唯一、この精神理論が鍛えられる。心理学では、彼らはさえたことをいえる。

 精神が高いと天国で高い世界に住む
 天国には10次元あり、心が合理化された人ほど高い世界にゆける。心醜いと、地獄に長く閉じ込められ、天国に上がっても下にゆく。天国の神々に近いところにゆくことを夢見る修業者は、よいだろう。徳を備えて、神々に愛されるのは、悪くはない。人に感化することもできる。

 精神が高いと即身成仏できる?
 仏教では、死んですぐに仏になる、という信仰がある。生きたまま仏になるのは、嘘である。

 ある日、覚者が決意して、次元上昇して、神になった、というのはありえない。次元の転換は、純粋に物理学現象だ。円盤をプラズマで覆い消すように、特殊な電磁波をかけると、その物体の次元は上げ下げできる。人間には、そんな電磁波を調整する能力もないし、次元移動するための電磁波を放出する技能もない。そんな無知な人間を騙す話である。

 即身成仏は死期が近い坊さんが、地中に入り、水や食べ物をあまりとらずに、修業しながら亡くなることだ。そのまま、ミイラになる。生きたまま仏になってしまった。

 もう一つチベットに伝わるもので、死んだ時に、地獄に落とさずに、天国に霊を飛ばすという秘術がある。死後すぐに成仏するから、即身成仏に似る。私はこれも即身成仏の由来の一つと考える。
 ラマ僧は、心停止の10-15分後に脳が死ぬときに行く先が決まると信じる。天国に自力で上ることができない人には、ラマ僧が手助けして、霊(幽体)を天国に飛ばす。彼らは他人の幽体を飛ばす技をもつ。だが、彼らは天国の位置を正しく知らないし、幽体を飛ばしても、霊はどこにもいかない。
 これはチベットの間違いの一つである。人の幽体は脳死で消える。天国にも地獄にもゆくことはない。本当は、死んだら、地上の霊となる。せっかく、幽体を天国に飛ばしても、地獄にも落ちないで、体の横に本人の霊がいる。幽体をどこかに飛ばすのは意味がない。
 霊能力のあるラマ僧は、霊が死後に体のそばにいると視える。だが、こちらの真実をラマ達は重視しない。成仏したはずの高僧の霊が寺内にひっそりいて、よくみかけることは、修業したラマ僧はよく知るのだが。

 まとめ
 精神次元をあげると、心が磨かれ、素晴らしくなり、精神論に強くなり、天国の高い階層にあがる。が、知識や技能は身につかない。即身成仏もしない。過大な期待は禁物だ。
posted by たすく at 21:25| Comment(0) | 精神次元 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする