2017年03月03日

瞑想で覚醒しても無限の叡智を得られない、ひたすら勉強しろ

瞑想で覚醒すると、無限の叡智を得られる?

瞑想のトレーニングの宣伝文句に、『覚醒して、内なる叡智を得られる』、『無限の叡智をもてる』などあるが、どこまで本当だろうか?

 まずは瞑想する。心の雑念を振り払い、心を空にして、さらに奥深く、心を覗き込む。空海によるといずれ小さな光が見える。それに向かって進むと、光輝く世界に入る。すると、仏が降りる。その後、仏がいつもそばにいて、智恵と光に満たされる、という。どこか嘘くさい。

 この叡智を求めて、人々は瞑想する。自分はどんなに賢くなれるのだろうか? そうなれることを思い、うかれつつ瞑想する。高僧のようになりたいと。だが、瞑想ばかりで、勉強しないで、智恵や知識はたくさん身につくのだろうか?

 過去、覚醒した人は山ほどいる。インドのヒンズーの行者、ラマの僧侶、中国、日本の修業者。彼らは悟り(覚醒して)、何やら深遠な話をするようになった。思慮深くなり、賢そうになれることは、わかる。素晴らしい。

 仏陀の覚醒は、菩提樹の木の下だ。それは万物と一体化するという感覚だった。それは第三の目を開くというものではない。それは修業時に体験したようだ。魔が現れ、誘惑する、と彼はいう。

 比叡山でも修業している。第三の目を開いた人は、自らはそれを名乗らないが、大勢過去にもいただろう。阿闍梨は見識を保ち、僧侶の範となり、京都や大津などの大衆にとって精神の鏡である。尊敬だ。

 古今東西、第三の目を開いた人は、無数にいる。彼らの智恵は、何かはよくわからないが、精神への深い洞察力につながった。

 残念ながら、第三の目を開いただけで、神の叡智を得た人はいない。イエス・キリストやモーゼ、ユダヤの予言者達は修業をしたという記録はない。よって、第三の目を開いた者が得られる智恵は、無限ではなく、有限。しかも、神未満だ。

 神が降りたと自称する人たちは、神のお言葉をはく。予言、宇宙の話、神々の話、精神論などなど。霊言を読むと、過去、未来の出来事が書かれている。しかし、思い出そう。それは実用書ではない。だから、役立つことはほとんど書いていない。SFのような楽しみはある。精神的に価値があるのかもしれない。僧侶の語りで、心が軽くなる人もいる。

 瞑想家の智恵は、精神論としては有用なようだ。が、物質的な生活を豊かにするには、無価値も同然だ。精神論として古臭いものは、あまり現代の人には、通用しないことが多い。気休めにはなる。が、科学の知見がほしい人には、なんの役にもたたない。

 瞑想で神仏とつながり、彼らから得られる智恵は、自身の人生の指針としても役立つかどうかは疑問だ。というのは魔にとりつかれると、破滅へと導かれるからだ。仏陀はそれを警告する。

 そもそも、瞑想とは、部屋・洞窟に閉じこもり、目をつぶり、心をみつめることだ。これは『ひきこもり生活』なのだ。実用的な智恵が身につくわけがない。もし、本人が何か新しい知見に至るとしても、それは、本人が自分の問題を自分で解決したことだ。それを1日に、1-3つしたとする。それで、どのくらいの精神の向上になるというのか?

 内面的な智恵を得るとは、自分の問題を解決することで、せいぜい1日にいくつか。1ヶ月でも、1人で頑張っても、さほど精神的な成長はない。1年で1冊の本にまとめられるほどにもならない。ある修行者は、ほうきをはく修業を10年以上やって、何かを悟った。そんなちんたらしたペースなのだ。

 瞑想を10年すると、老ける。瞑想をそんな期間しても、得られる知見などごくごくわずかだ。本一冊分にもならないだろう。

 が、医学部に6年通うと、平凡な人間が医者になれる。工学部に4年在籍するだけで、工学についてありとあらゆる標準的な知識は身につける。
 学校にゆき勉強すると、めきめきと知識が増えて、物知りになれる。絵画など芸術の学校にゆくと、2-4年という短期間で上達して、玄人に近くなる。瞑想でえられる何倍、人によって何十倍の智恵を手にすることができる。

 瞑想で得られる智恵などは、わずかなのだ。瞑想に期待しないほうがよい。

 瞑想で得られる智恵とは何か?
 密教で最も進むのがチベット仏教である。そこでは、ずばり、瞑想の智恵、ノウハウがしっかりと身につく。日本のは初歩的だ。もっとも奥深く、高い瞑想を彼らはもつ。その理論や技法を身に着け、悟ることができる。彼らは、瞑想の達人になれる。

 とはいえ、それでもって、社会を深く語れることはなく、科学をより深く理解することもなく、単に、心の奥底の真理に詳しいという話だ。瞑想に求めるのは、そういうものであるべきだ。

 心を静かに保つ才能、集中力をあげる力、異世界(宇宙人のイカサマ)と交信する能力、透視力、霊能力、夢をコントロールする力なのだ。そういうこの精神世界の独特な能力。それを求めるなら、瞑想したらよいだろう。

 実際、この智恵の魅力にとりつかれて、修業する人も多い。が、得られる智恵はわずかなので、失望すべきだろう。まず、さっきも書いたように修業が盛んな地域は、インド、チベット、日本では仏閣である。科学の進歩から取り残されたようなところだ。

 僧侶はたくさんいるが、科学的なもの、実用的なものは、ほとんど得られない。医学の知識、新しい技術のひらめき、新しい理論を、彼らが発表することはない。彼らが話せるのは、人生を深く生きる智恵だ。数千年前から語られるようなごくごくありふれた精神の深い話だ。それができる人がかっこいいと思える人は、瞑想しよう。

 科学や技能で万能になりたい人は、瞑想に時間を費やすのをあきらめ、本で学習しよう。ずっと早く、目指すマルチ学者になれる。

 現代を生きるなら、瞑想するよりも、ただひたすら勉強しろ。私がアドバイスするのは、そちらである。
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2017年02月24日

 精神次元をあげる時には、瞑想と日記とでは、どちらが効果的か?

 禅宗では、座禅を組み、呼吸を整え、目をつぶり、心静かにする。そうやって、自分の心に浮かぶものを観察する。

 すると、様々な思いが沸いてきて、それぞれに心惑い、煩わされる。感情が高ぶらないようにしながら、それらを受け止め、一つずつの思いを理解する。

 不倫、大きな失敗、反省、悔い、様々なものが心を支配する。なぜ、あの時、悲劇に至ったのだろう。自分がいたらなかったせいか? 自分に何ができたのだろう。激しく動揺するような出来事を、みつめる。今後、自分はどうなるのだろう?

 答えを見出さなくては、いつまでも心から離れないものもあるだろう。そのように一つずつ、悩みに答えを見出しながら、今の自分の問題を解決して、苦悩を消してゆく。

 すると心の揺れはしだいに小さくなり、落ち着いてゆく。自分の立ち位置、自分の状態がクリアにみえる。すると、疑問はしだいになくなる。悩みも消えてゆく。

 目前の問題は、しだいに解決してゆき、だんだんと奥深い問題へと入ってゆく。

 瞑想しなくても、日記を書きながら、毎日の自分の課題を書き出して、答えを見つける。それで、同じように心の問題を解決して、自分の姿をみつめることはできる。

 どらちが優れているか? 自分の心をクリアに保ち、軽くする上では、差がない。だが、暗算で数学の問題を解ける人はまずいない。詰将棋を頭の中だけで答えを出すのは、面倒だ。どちらかというと、紙に書いて、物事を考えたほうが、より正確に、より深く、より正しく考えられる。

 わざわざ目をつぶって、紙と鉛筆を使わないで、瞑想して、自分の心理を分析するのは、要領はよくない。ふつうにそういう時間をとって、卓上でするほうがよい。

 このあたり、自分の心を鎮めるために、瞑想に頼るのは、効率が悪い。自分の課題を書き出して、一つずつ解決して、答えを見出したらよい。

 では、なぜ人々はわざわざ瞑想をするか。人は、心落ち着いて、自分の状態を正確に知ったら、それで次に進むことができる。自分のしたいこともわからない人よりも、日々、的確に行動できる。効率はあがる。

 これを日記に書いて行う人は、頭がよい人ではある。が、その人は、心落ち着けるために専念しているわけではない。次に自分が何をしたいのか、どう行動したらよいのか? それを知るためにやっている。

 瞑想する人は、目的が違う。自分を極度にコントロールして、平静でいたいのだ。自分の根本を知りたい。心のメカニズムを一つずつクリアしてゆくと、さらに心の奥底にたどりつく。感覚すら遮断して、無音、光がない心の底に入り込む。そういうことがしたいのだ。

 だから、安易に比較しないほうがよい。自分の悩みを解決するだけなら、瞑想ではなく、日記をかくようにしよう。

 なお、精神次元をあげたい若者は、日記を書いて、自分の関心、精神課題を調べ、その答えを毎日見つけよう。それしか、次元はあがらない。瞑想はやめておけ。
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2017年02月21日

まもなく地球は人間でいうと8次元の意識から、9次元にあがる

 まもなく、地球は人間でいうと8次元の意識から、9次元にあがる

 人間は精神が成長しつづけると、15歳で7次元、18歳で8次元、21歳で9次元にあがる。だいたい3年で次元を1つあげる。

 15歳の課題は『理性』で、知恵を求める。合理的なものを好む。それは人類の思想では、デカルトは自己が『数理的な存在』とした。15-17歳の人物は、純粋理性のカントや理性哲学のヘーゲルと似た関心をもつ。つまり、青年期の発達心理は、人類の思想と対応する。

 18歳の課題は『自由』で、関心は社会に向く。大学生になると、自由を求め、社会運動に一時的にのめり込む。全共闘は、そういう社会的な自由に目覚めた者達だったが、所詮、マル経済を信じるなど、理論が幼稚だった。社会を論じる学問は社会学にしかなく、経営学は人間のあり方をよく解明している。そういうものに関心が移るのが、18-20歳である。この期間の前半は、社会論を学び、後半は社会活動を実践する。
 ヘーゲルが終わると、人類は『自由』を論じ、理想社会を夢見て、自由な社会を実現させようと努力した。18-20歳の発達心理は、19世紀から20-21世紀の社会イデオロギーの時代と対応する。

 精神が8次元の人の関心は、社会や自由なのだ。過去や未来を見ることが大事なのではない。社会とは何か、社会と個人の関係、社会の中での人間のあり方。それを合理的に理解すること。それが彼らの課題である。

 ここまで、15歳が3年、18歳が3年だった。ということは、次の段階に上がるのは、21歳とわかる。21歳で何に関心をもつか? 『空間』である。21歳からは、建築や都市計画に関心をもつ。人類はまだその段階には至っていないが、地球環境への関心は高まっている。社会制度をよくすることは、そろそろ限界に近づく。社会を改良する情熱は、20世紀半ばほど強くない。そろそろ社会イデオロギーの時代は終焉する。

 その時、社会理論の集大成みたいなものが現れて、社会思想を統合する。それでイデオロギー闘争は終止符が打たれる。すると、人々は新しい関心へと移る。

 現在、社会思想の末期である。8次元が最終段階に近づいている。理性を宿した上で、社会に関心をもつ人は、精神が8次元だ。人類は科学という合理主義を思想の基盤におく。そして、社会論を発達させた。人類は、8次元の精神だった。

 そして、2017年、それを終えつつある。つまり、もうすぐ人類は、9次元へと突入する。

 人類はもうすぐ、おそらく2032年(なぜこの年かは、いずれ説明する)に9次元に入る。これが正解である。

 人類が4次元の意識になるとか、5次元の意識になる、というアセンション説は根拠のない嘘っぱちだ。これまでの20世紀、人類は8次元の意識だった。それが、21世紀を少しすぎると9次元になる。それが真実である。
posted by たすく at 21:26| Comment(0) | 精神次元 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする