2017年09月14日

「愛が全て」ではない 4 --- この世に愛でないものがあることを示して、反証する

 この世には、愛でないものがあることを示して、反証する。

 宇宙は最初のビッグ・バンで爆発して、どこまでも広がる。これは愛によってそうなっているわけではない。この宇宙を支配する重力も、愛によって行われているわけではない。純粋に、物理上の問題だ。宇宙のすべては愛で説明できるものではない。

 人間は、時に、交通事故を偶然に引き起こす。本人のためにもならないし、人のためにもならない。これは愛といえない。また病気にもなる。これも、愛によって病気になるわけではない。自分を愛するためでも、他人を愛するためでもないが、病気や怪我になる。あらゆる不幸は、人の幸福を願う愛によって生じるものではない。

 人は、愛以外のこともする。こういう愛がない体験を経て、愛を強く求める気持ちになる。としても、人生は愛だけではない。それが事実だ。

 人間にとって、愛が全てでも、全てが愛でもない。
posted by たすく at 21:24| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「愛がすべて」ではなく、「すべてが愛」が正しい言い方。でも、全てが愛ではない。

「愛が全て」ではない 3

愛する妻子を失った者が、自分には愛が全てだったと気づく。愛が全て、というのはこの言葉が本来そういう悲痛な叫び、だというのは正しい。

が、一般の人は、まったく違った意味でこの言葉を理解している。人間がなすべきことは愛しかない、と彼らは考える。精神論では、こちらが主流だ。こちらも間違いだと示そう。

「愛が全て」というのは、「妻子以外にこれといって大切なものがない自分にとって愛がすべて」だったという意味だ。実に、特殊な状況の人物にいえることだ。これが、人類一般にあてまるか?

 それを考える前に、言葉の間違いを正そう。

 「愛が全て」について、精神理論家は、愛という一面的なものが、宇宙のすべてである、という意味、もしくは人間にとってすべてという意味で使いたい。

が、愛=宇宙ではない。だから、愛が宇宙のすべてという言い方はおかしい。また、愛=人間でもない。愛は精神の一部。人間は高等生物のこと。よって、愛が人間のすべてというのもおかしい。

何を間違えていたか? 主語と述語の順序がおかしいのだ。「愛はすべて」ではなく、「全ては愛」と言うべきだった。

例えば、「すべては波動だ。」というのは、全ての物質は波動から成る、という意味だ。が、「波動が全てだ。」というのは、「彼の頭の中は、SEXが全てだ。」と似て、それしか考えていない、という意味に聞こえる。

「すべては愛だ。」、「すべては電気で動く。」、「すべては太陽の恵みを受ける。」というようにすると、「すべてのものは~~の性質がある。」というような意味となる。

 精神論では、「愛が全て」と言ってはいけなかった。「すべては愛」だった。

 というわけで、この段階で、すべてが愛ではなくなった。「すべては愛」という言い方にすると、「すべてのものは、特定の性質がある。」という意味となる。

 愛は、特定の性質、つまり、特殊な面ということになった。つまり、愛が全てでも、全ては愛でもなくなった。

 というわけで、文法上は、すべてが愛ではないのだ。
posted by たすく at 21:21| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月13日

「愛が全て」ではない--それはドラマでは愛する妻子を殺された者が、犯行動機として口にする言葉だ。

愛が全てではない 2

『愛が全て。』というのは、一般論として、本当に世の中で、『愛がすべて』という意味ではない。 妻や家族を自分は愛する。それが自分のすべて、という意味だ。

ドラマでは、犯罪者が犯行動機を語る時に、吐露する言葉だ。復讐で誰か男を殺した男。彼は捕まる。彼はなぜ犯罪をしたと刑事に追求される。すると、彼は自身に起きた不幸を悲痛に語る。

『私には愛する妻と子がいた。ある日、その男が家に忍び込んで、妻と子を手にかけた。私はそれ以来、彼を憎み、復讐を考えていた。私には愛が全てだった。』

これが、愛が全ての本当の意味である。愛が、精神論として最高の理論だとか、そういう意味合いではない。人間の価値観は、愛が全てである、ということでもない。

単に、家族の他に何も信じてないし、何ももってない。家族以外の誰のためにも生きていない。だから、愛が全てとなるのだ。

実に、背負うものが少ない責任感がない人間のちっぽけな価値観だ。まったく格好良くもなく、大人でもない。犯罪者の心根だから、自分勝手でもある。

他にも、『金が全てだ。』というのもある。金の亡者で、いつもお金を持ち、執着する。世の中、金しか信頼できない。人は裏切るが、お金は裏切らない。お金こそがすべて、という。視野の狭さはそっくりである。

愛が全て、というのはあるタイプの価値観だ。社会や親族を信頼しない。子や妻だけを愛する。愛する家族のためだけに生きるという信条なのだ。

この考え方がいかに狭いかを説明する。まず彼は、神のためには生きない。彼は神を実感しないし、尊いものだと考えない。神のために生きることに興味ないからだ。

この人物は親や親戚、友人のためにも生きていない。友情は愛情とは違う。愛する対象ではないからだ。

この人は、社会や国のためにも生きない。彼は、社会や国家がどうなろうと、自分と妻子の間が幸福なら、満足だからだ。

彼は、他人、社会、友人、親、親族、国家、人類、社会、神のために生きることはない。ただただ家庭のために生きる。そんな自分勝手な人間である。そういう小心者の価値観こそが、『愛が全て』なのである。

これでも、君は『愛はすべて(だった)』と復讐で捕まった犯罪者のように悲しく口走りたいのか?

 愛が全てと語るのは、妻子を失ったものたちだけでよい。大きなものを失って、立ち直れない時、彼らはそう語りたいし、それは認める。

 だが、精神論の大家がそれを語るのは、情けない。それは愛を絶たれ、喪失感が大きかった者の悲しみだ。妻子しか見えない者と同じだからだ。

もののわかった人は、愛がすべてと語るのは狭量にみえるから、やめておこう。
posted by たすく at 21:13| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする