2017年07月07日

理性的な人たちの考え方

 理性とは何か?
 日本人で、理性がなんたるかを正確に語れる思想家は、過去にいなかった。理性を理解するのは、今でもごくわずかだ。

 簡単には、デカルトの数学的な自己のことだ。経験や感覚から離れて、頭の中に存在する自己。それが理性だ。

 この理性は、自己の純粋なものだ。よって、あらゆる脳がある動物に備わる。犬、猫、ライオン、ネズミにも理性はある。

 理性とは、論理的な思考をさす。で、理性のうち、悟性、つまり感覚したものが何かを判定する脳の機能は、理性に含めないものとする立場が、カントだ。

 「文字」を見て、「モジ」と読み、文字という言葉の意味を知る事。それは理性とはいわないのがカント、ということ。

 でも、彼は悟性は、理性に含めたのではなかったか? そうかもしれない。が、ヘーゲルになると、理性に含めないのだ。

 ヘーゲルは、理性の発展を示した。学問を発展させて、体系を大きくすることだ。これは、自己の理性の成長なのだ。

 彼は、理性の内実(学的な認識のこと)を理性から分離した。すると最後に残ったのが、論理学だった。理性は、論理学のことというのが、彼の結論だったはずだ。

 ヘーゲルがそこまで正確に理性を理解したかは、私は彼の本をきっちり読んでないからわからない。だが、理性は、論理学のこと。頭の中にある「論理回路」だということが、わかった。

 これで、ヘーゲルはついに理性をつきとめた。それで、西洋では、理性の探求は終わった。それ以後、理性を語ることがもてはやされることはなかった。理性を語る男がかっこよくみえる時代は、近代で終わったのだ。

 そうして、200-300年すぎて、理性だけをもつコンピューターが出現した。論理回路が理性なのだ。

 ここまでが基本。

 理性を猿がもつ理由
 理性によって、経験から学ぶことができる。一度失敗したら、それを避ける。あれは条件反射ではないのだ。そういう脳をもつ動物は理性をもつ。

 猿、カラス、猫、チンパンジー、鳥、魚、クジラも理性をもつ。

 理性と感情
 これを論じるのは幼稚な人たち。感情は、論理的な判断を妨害する。

 また感情は、一定のパターンで生じる。ある言葉をきっかけに怒る。怒りは、恐怖で消える。そういう意味では、感情もまた認知の機構の一種なのだ。

 背中を意識すると、感情が怒り、不安が消え、落ち着く。感情は物理的なものでもある。

 理性と対立するものではない。並立するもので、感情は精神のサブである。

 感情で大事なのは、喜びである。心と体の欲求を満たしているか。喜びの大きさはそのバロメーターである。

 感情に似ているものに、いやな予感というのがある。ぱっとみた時に、原因がはっきりしないが、悪いことが起きると感じるもの。これは、形の判断なのだ。碁打ちは、詰碁を見て、直感的に解けるかどうか、判断できる人がいる。そういうパターン認識の一種である。

 理性的な人とはこんなことが、わかりきっている人たちのことである。
posted by たすく at 20:57| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月04日

万能になることは、人の最初の目標--専門分野だけでは狭量だ。

理数が得意で、文系が苦手。芸術やスポーツの才能はあまりない、は人間として正しいか?

 寿命が80年と短い間は、全能力を高度に発達させなくても、人格者になれる。が、未来で、科学も進歩して、寿命が200年、300年と伸びると、その間に多々学べる。学問が発達して、現在では習熟に困難なものも、わりと簡単に習得できるようになるだろう。

 そんな200才、300才も人が長生きする文明では、数理工学は一通り学ぶ。文学(情報学、会話、小説)も全部は、習得する。芸術も一通り、絵画、彫刻、音楽も身につけるだろう。スポーツも何百年と健康で、ある程度できなくてはお話しにならないだろう。今でいう万能が、大人の最低要件となる。

 専門分野だけの才能で得意がるのは、実に、狭い人間ということになる。

 人間は死んだら、その後は、あの世で学ぶ。同じように、今身につけなかったものは、早急にあの世で、学習して、会得する。500年あると、あらゆる学問は一通りマスターして、芸術全般をそれなりにこなせるような万能に近い人格になれる。

 しかし、はっきり言う。これは、霊界ではごくごく初期の達成ノルマだ。何千万年と生きる霊達にとって、数百年しか生きてないようなのはひよっこだ。我々、人類はその生まれたての赤子に等しいようなのにも及ばない。

 万能は、必ず目指さなくてはいけない。しかも、それは初歩的な目標である。人格の標準的な完成という最初の目標である。専門分野だけで、十分と思ってはいけない。

 その上があるのだが、それはまた調べてからかくことにしよう。

posted by たすく at 21:38| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月30日

『世界はなぜ「ある」のか?』(ジム・ホルト、早川書房)の感想 その8 -- 15章は、無への回帰

『世界はなぜ「ある」のか?』(ジム・ホルト、早川書房)の感想 その8 -- 15章は、無への回帰

死んだら、無になる、という話。彼は西洋哲学の死についてのいろんな説を紹介する。
この章で大事と思うのはひとつ、「哲学者の誤謬」だ。哲学者が陥りやすい間違い、哲学の間違いという意味だろう。フロイトやゲーテが「死」を想像できないことが、それらしい。が、ジム・ホルトは死を想像できないことはおかしい、と考える。人は死ぬ。それを考えられないのは明らかに間違いだ。哲学者らしい間違いがいくつかある、と西洋人は考えていると私は初めて知った。

ジム・ホルトは、死んだら、霊になるという話に不安を覚える。彼は死ぬと無になる、と彼はまず考える。確かに、死ぬ時には、肉体の感覚と思考がしだいに止まり、自己は消えて、無になる。

ここに異論はない。ゲルク派の「チベット死者の書」には、死ぬ時に、どんな順番で、自己の感覚や機能が一つずつ停止するか。詳細に書かれてる。そうやって、人は死に際して、世界とのつながり(感覚経路の機能停止のこと)をなくし、最後には自己も消えて、無になる。

彼はこれが怖い、恐ろしいという。これら無になるプロセスは自覚するかはともかく、誰でも体験する。心臓が止まり、臨死状態になる。それから脳がゆっくりと15分かけて止まる。肉体的な存在としては、無になる。当たり前のことだ。人は、これが怖いのは、当然だ。ご老人であの世を待ち遠しく思う者以外は、死を恐れる。

その後、霊となって、霊として意識が戻る。

で、こんな無になる話を彼流に書いた後、母が亡くなった話をする。実際に、死とはどういうことか? を記したいのだろう。

 母の死という体験で終わらせたのは、哲学者らしくない。哲学者なら、そこもややこしいものいいで語るべきだ。ここからわかるのは、彼の「哲学」は貧弱で、死以降のことを語ることはできないことだ。

さて、ここを読んで、私は一つ疑問が浮かんだ?

 死ぬと霊になるといっても、その時に、自己が同一かどうかは、論点がある。肉体の自己と、霊体の自己。その2つに連続性はあるものの、同一の存在なのだろうが、厳密にそうなのか? 

 死後に霊が分離するから、生きている肉体には自分の霊が存在する。生きている時に、肉体の私と霊体の私は一体化している。で、死ぬと、霊体が分離する。

 脳の大部分が停止して、分離して霊となる。それは、肉体の自分と同一といえるのか? 両者は構成物質が大きく異なる。大きな変化だ。肉体の自己が霊となった時に、それは同じ自分といえるのだろうか。これは哲学的にも、大問題なのである。

 物体としての脳から、霊体としての脳への移行の時に、自己は継承されるのか? という問題。いつか、明らかになるだろう。

posted by たすく at 22:17| Comment(0) | ジム・ホルト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする