2017年03月10日

瞑想は、効率が悪い

瞑想は、効率が悪い

賢くなろうとして、智恵を求めて、瞑想する。そんな目的で瞑想するのはおかしい。

学生はしないと思うが、テレビを見ながら勉強すると、学習効率が落ちる。2-4割は頭に入らなくなる。テレビを用いた学習は、通常の5割ほどしか身につかない。

では、ラジオは? 私はラジオで勉強したことはないが、3-4割くらいではないだろうか。ラジオで英語はとてもじゃないが、勉強できない。まったく身につかないからだ。

では、瞑想では? 
 静かに勉強できる? それはそうだが、目をつぶって、ノートもなく、教科書もない。それで何を勉強するのだろうか? 教材を何も与えず、社会から隔絶した場所、例えば、監獄にぶちこむ。すると、その人は、ムショでひたすら犯行を反省するだろう。やがて、彼は何か悟るだろう。

 とはいえ、わずかな知識しか身につかない。

何かテーマをもって、それを考えたい人が、時々、部屋にこもって、1人、あれこれ考えを巡らせる。こういう学習テーマが決まっている瞑想は、どの程度の効率か?

ふつうに勉強するのを100とする。彼は目をつぶって思索するから、ノートと鉛筆も持たない。だから、何か新しいこと思いついては、それを記録しないから、忘れる。それを繰り返し、同じようなことを何度も考える。あまり考えが進まない。

2次方程式を暗算で解くのは、至難である。慣れた人でも、三次方程式は暗算で解けないだろう。囲碁を、碁盤と石なしで、打つようなものだ。将棋を盤と駒なしで対局する。これは、とても効率が悪い。3-4割だろう。

瞑想中に、メモするのはいい案である。が、メモがあっても、効率はふつうの学習並みにならない。教材がなく、すべて自分で考えるから、1人で参考書と教科書なしに、数学を学ぶようなものだ。その効果は、本人の興味を満たす程度である。効率はすこぶる悪い。15-30くらいだろう。

さて、私は透視しながら、いろいろ考える。瞑想すると、頭に物事がクリアに浮かんできて、それをもとに様々なことを考えられる、と過大視する人はいる。が、透視して、何かを見ながら考えても、考えは進展しない。私は学校などで習うお金がないから、自由連想するしかないのだ。

 PCの画面にくっきり見えるなら、そっちのほうがよい。もっと楽に、思考が進む。本があるとなおさらよい。瞑想は、単に、よい本がないからやっている。それがあれば、瞑想じみたことはしないのだ。

高僧が想像力豊かで、様々に思い描くことができて、深い思索ができる。そう考える人は、期待しすぎだ。学校で習うほうが3倍はよい。

瞑想は、通常の学習の2-3割未満の効率である。時間をムダにしたくない人は、専門学校や教室で習うことを勧める。
posted by たすく at 21:58| Comment(0) | 精神次元 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月06日

精神次元をあげる目的は?

精神次元をあげる目的は?

 世界中のあちらこちらで、精神向上に励む。仏教徒は仏陀に近づこうとして、キリスト教徒はイエスの精神になろうとして。ヒンズー教徒は高みに入るために。

 私は比叡山の周辺、京都市近郊の枚方に住んでいた。街角に道徳の標語が掲げられ、この地でも叡山の阿闍梨が尊敬された。そんな風土で育ったから、心を見抜く才ある私が、人格を極めようとしたのは自然なことだった。

 多くの求道者の目的はこんなものだ。仏教では、心迷いがとれ、深い洞察をさらさら語り、人格者になり、徳に満ち、大勢に尊敬され、慕われることがかっこよく、それを目指す。瞑想と修業で人格者になれる。が、自身の哲学を根本から変えないと、精神は表面がきれいになるのみで、心のシステムそのものはクリアにならない。

 キリスト教では、修道会に入り、神に愛される人格になり、何一つ罪を冒さないで、天国に入ることが素晴らしく、それを目指す。日本人は、愛を行うことがキリスト教徒の努めと思う。ここでは、キリスト教徒独特の戒律が厳しくあり、精神の向上は望むべくもない。神に愛されることを追求する。

 精神次元をあげると、あらゆる智恵を習得するわけではない
 修業して、悟ると叡智を手に入れる、という迷信がある。神につながっても、そうはならない。宗教家は、現代の科学者ほどに知識はない。彼らはレオナルド・ダ・ビンチのような万能でもない。仏教の最も極めたラマ僧が、あらゆる知識に秀でるわけではない。囲碁、剣道、諸学に、精神家が必ずしも通じているわけではない。

 精神修業とは、精神論を習得することだ。精神が高い人ほど、精神論に強くなる。感情、性善説、性悪説、理性、社会性など、高い者はすらすら答えられる。これらに答えをもたない者は、精神的には挫折しており、そう優れてはいない。高い次元の精神は、唯一、この精神理論が鍛えられる。心理学では、彼らはさえたことをいえる。

 精神が高いと天国で高い世界に住む
 天国には10次元あり、心が合理化された人ほど高い世界にゆける。心醜いと、地獄に長く閉じ込められ、天国に上がっても下にゆく。天国の神々に近いところにゆくことを夢見る修業者は、よいだろう。徳を備えて、神々に愛されるのは、悪くはない。人に感化することもできる。

 精神が高いと即身成仏できる?
 仏教では、死んですぐに仏になる、という信仰がある。生きたまま仏になるのは、嘘である。

 ある日、覚者が決意して、次元上昇して、神になった、というのはありえない。次元の転換は、純粋に物理学現象だ。円盤をプラズマで覆い消すように、特殊な電磁波をかけると、その物体の次元は上げ下げできる。人間には、そんな電磁波を調整する能力もないし、次元移動するための電磁波を放出する技能もない。そんな無知な人間を騙す話である。

 即身成仏は死期が近い坊さんが、地中に入り、水や食べ物をあまりとらずに、修業しながら亡くなることだ。そのまま、ミイラになる。生きたまま仏になってしまった。

 もう一つチベットに伝わるもので、死んだ時に、地獄に落とさずに、天国に霊を飛ばすという秘術がある。死後すぐに成仏するから、即身成仏に似る。私はこれも即身成仏の由来の一つと考える。
 ラマ僧は、心停止の10-15分後に脳が死ぬときに行く先が決まると信じる。天国に自力で上ることができない人には、ラマ僧が手助けして、霊(幽体)を天国に飛ばす。彼らは他人の幽体を飛ばす技をもつ。だが、彼らは天国の位置を正しく知らないし、幽体を飛ばしても、霊はどこにもいかない。
 これはチベットの間違いの一つである。人の幽体は脳死で消える。天国にも地獄にもゆくことはない。本当は、死んだら、地上の霊となる。せっかく、幽体を天国に飛ばしても、地獄にも落ちないで、体の横に本人の霊がいる。幽体をどこかに飛ばすのは意味がない。
 霊能力のあるラマ僧は、霊が死後に体のそばにいると視える。だが、こちらの真実をラマ達は重視しない。成仏したはずの高僧の霊が寺内にひっそりいて、よくみかけることは、修業したラマ僧はよく知るのだが。

 まとめ
 精神次元をあげると、心が磨かれ、素晴らしくなり、精神論に強くなり、天国の高い階層にあがる。が、知識や技能は身につかない。即身成仏もしない。過大な期待は禁物だ。
posted by たすく at 21:25| Comment(0) | 精神次元 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月03日

瞑想で覚醒しても無限の叡智を得られない、ひたすら勉強しろ

瞑想で覚醒すると、無限の叡智を得られる?

瞑想のトレーニングの宣伝文句に、『覚醒して、内なる叡智を得られる』、『無限の叡智をもてる』などあるが、どこまで本当だろうか?

 まずは瞑想する。心の雑念を振り払い、心を空にして、さらに奥深く、心を覗き込む。空海によるといずれ小さな光が見える。それに向かって進むと、光輝く世界に入る。すると、仏が降りる。その後、仏がいつもそばにいて、智恵と光に満たされる、という。どこか嘘くさい。

 この叡智を求めて、人々は瞑想する。自分はどんなに賢くなれるのだろうか? そうなれることを思い、うかれつつ瞑想する。高僧のようになりたいと。だが、瞑想ばかりで、勉強しないで、智恵や知識はたくさん身につくのだろうか?

 過去、覚醒した人は山ほどいる。インドのヒンズーの行者、ラマの僧侶、中国、日本の修業者。彼らは悟り(覚醒して)、何やら深遠な話をするようになった。思慮深くなり、賢そうになれることは、わかる。素晴らしい。

 仏陀の覚醒は、菩提樹の木の下だ。それは万物と一体化するという感覚だった。それは第三の目を開くというものではない。それは修業時に体験したようだ。魔が現れ、誘惑する、と彼はいう。

 比叡山でも修業している。第三の目を開いた人は、自らはそれを名乗らないが、大勢過去にもいただろう。阿闍梨は見識を保ち、僧侶の範となり、京都や大津などの大衆にとって精神の鏡である。尊敬だ。

 古今東西、第三の目を開いた人は、無数にいる。彼らの智恵は、何かはよくわからないが、精神への深い洞察力につながった。

 残念ながら、第三の目を開いただけで、神の叡智を得た人はいない。イエス・キリストやモーゼ、ユダヤの予言者達は修業をしたという記録はない。よって、第三の目を開いた者が得られる智恵は、無限ではなく、有限。しかも、神未満だ。

 神が降りたと自称する人たちは、神のお言葉をはく。予言、宇宙の話、神々の話、精神論などなど。霊言を読むと、過去、未来の出来事が書かれている。しかし、思い出そう。それは実用書ではない。だから、役立つことはほとんど書いていない。SFのような楽しみはある。精神的に価値があるのかもしれない。僧侶の語りで、心が軽くなる人もいる。

 瞑想家の智恵は、精神論としては有用なようだ。が、物質的な生活を豊かにするには、無価値も同然だ。精神論として古臭いものは、あまり現代の人には、通用しないことが多い。気休めにはなる。が、科学の知見がほしい人には、なんの役にもたたない。

 瞑想で神仏とつながり、彼らから得られる智恵は、自身の人生の指針としても役立つかどうかは疑問だ。というのは魔にとりつかれると、破滅へと導かれるからだ。仏陀はそれを警告する。

 そもそも、瞑想とは、部屋・洞窟に閉じこもり、目をつぶり、心をみつめることだ。これは『ひきこもり生活』なのだ。実用的な智恵が身につくわけがない。もし、本人が何か新しい知見に至るとしても、それは、本人が自分の問題を自分で解決したことだ。それを1日に、1-3つしたとする。それで、どのくらいの精神の向上になるというのか?

 内面的な智恵を得るとは、自分の問題を解決することで、せいぜい1日にいくつか。1ヶ月でも、1人で頑張っても、さほど精神的な成長はない。1年で1冊の本にまとめられるほどにもならない。ある修行者は、ほうきをはく修業を10年以上やって、何かを悟った。そんなちんたらしたペースなのだ。

 瞑想を10年すると、老ける。瞑想をそんな期間しても、得られる知見などごくごくわずかだ。本一冊分にもならないだろう。

 が、医学部に6年通うと、平凡な人間が医者になれる。工学部に4年在籍するだけで、工学についてありとあらゆる標準的な知識は身につける。
 学校にゆき勉強すると、めきめきと知識が増えて、物知りになれる。絵画など芸術の学校にゆくと、2-4年という短期間で上達して、玄人に近くなる。瞑想でえられる何倍、人によって何十倍の智恵を手にすることができる。

 瞑想で得られる智恵などは、わずかなのだ。瞑想に期待しないほうがよい。

 瞑想で得られる智恵とは何か?
 密教で最も進むのがチベット仏教である。そこでは、ずばり、瞑想の智恵、ノウハウがしっかりと身につく。日本のは初歩的だ。もっとも奥深く、高い瞑想を彼らはもつ。その理論や技法を身に着け、悟ることができる。彼らは、瞑想の達人になれる。

 とはいえ、それでもって、社会を深く語れることはなく、科学をより深く理解することもなく、単に、心の奥底の真理に詳しいという話だ。瞑想に求めるのは、そういうものであるべきだ。

 心を静かに保つ才能、集中力をあげる力、異世界(宇宙人のイカサマ)と交信する能力、透視力、霊能力、夢をコントロールする力なのだ。そういうこの精神世界の独特な能力。それを求めるなら、瞑想したらよいだろう。

 実際、この智恵の魅力にとりつかれて、修業する人も多い。が、得られる智恵はわずかなので、失望すべきだろう。まず、さっきも書いたように修業が盛んな地域は、インド、チベット、日本では仏閣である。科学の進歩から取り残されたようなところだ。

 僧侶はたくさんいるが、科学的なもの、実用的なものは、ほとんど得られない。医学の知識、新しい技術のひらめき、新しい理論を、彼らが発表することはない。彼らが話せるのは、人生を深く生きる智恵だ。数千年前から語られるようなごくごくありふれた精神の深い話だ。それができる人がかっこいいと思える人は、瞑想しよう。

 科学や技能で万能になりたい人は、瞑想に時間を費やすのをあきらめ、本で学習しよう。ずっと早く、目指すマルチ学者になれる。

 現代を生きるなら、瞑想するよりも、ただひたすら勉強しろ。私がアドバイスするのは、そちらである。
posted by たすく at 21:16| Comment(0) | 精神次元 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする