2019年07月19日

瞑想の科学 段階7 空間

瞑想の科学 段階7 空間
 
 前回は段階6を説明した。瞑想の段階6は社会についての考え方や運営の仕方を学ぶ。チベット仏教では「如来部」と名づけられ、如来の精神をさす。識無辺処の境地になれた。今回、その一つ上の段階を解説する。
 
瞑想の段階
数-テーマ-内容-発達心理の年齢-精神の次元
1, 体内の感覚 (空腹 喉の乾き 呼吸の苦しさ )  3-4歳の精神 5次元
2, 体外の感覚 五感(目、耳、鼻、舌、触?)  6-7歳の精神 5次元
3, 認知(悟性) (食べ物、飲み物、酸素…)  9-10歳の精神 5次元
4, 運動(力) (力を学ぶ、運動規則、)  12-13歳の精神 6次元
5, 理性(論理) (空の精神、理性的自己) 15-16歳の精神 7次元
6, 社会 (通信やコミュニケーション能力、社会的地位など) 18-19歳の精神 8次元
7, 空間 (建築、人間工学、生態系、環境、環境の人間への影響) 21-22歳の精神 9次元
8, 2次元 (面、絵、写真) 24-25歳の精神 10次元
9, 1次元 (文章、音楽、声) 27-28歳の精神 10次元
10, 0次元 (直感や瞬間的なもの) 30-31歳の精神 10次元

 段階7のテーマは空間だ
 どのようにテーマが社会から空間に変わるか。段階6(社会)の末期に、識無辺処という境地になり、すべての視界に無数の理性者を感じる。先にゆくと、自分の周囲だけでなく、遠くの景色、大地、さらに広がり、宇宙全体に無数の理性者を感じる。これが社会期の最終ステップだ。そして、理性存在がすべての空間を覆う。
 
 理性期の末と似る。が、今回は理性的な存在が宇宙全体に無数にいて、それらはネットワークで無限につながっているという景色となる。理性期の末では、無限にあると感じるのは法則だ。この状態になると、次に進む。
 
 瞑想では前は暗いが、後ろか横を見ると、視点が明るくなる。この時に、段階7にあがる。その宇宙全体に広がるネットワーク網が、一つの物の中におさまる(内包される)。一つの物から、放射状に影響力が出るよう見える。ネットワークの無数の線は、太陽から放たれる光のようにみえる。
 
 テーマが変わる。個体の空間における影響となる。個体は物で、なんでもよい。この空間を感じるとは、まずは物から放たれる影響力を感じる。それは段階2の感覚と似る。違いは、物の空間への作用をよく感じるのが、段階7。段階2では、感じるのは熱さや冷たさなど具体的なものだ。似ているがやや違う。この時より、関心は社会から空間にうつる。
 
テーマは空間
 20-21世紀初頭、人類のテーマは社会思想の段階(後半)だった。それが20世紀末になると環境主義とか、空間をテーマにしだした。それと同じ順番だ。都市空間、都市環境、生物空間、生体空間など、社会空間などのテーマがある。段階の前半は理論や認知、後半は実践や作ることだ。
 
段階7 空間
前半 理論 認知
1, 住空間 住む環境
2, 食、飲み物、生物の空間
3, 運動、動作、作業、可動域、行動エリアの空間
4, 通信、声などの社会空間
5, 生体、細胞、臓器、生物の体型の形などの空間
 
後半 実践
1, 家、住、道路、町、都市などの住む空間
2, 単細胞、小動物、魚、両生類などの生態の空間
3, 運動、動作、作業、社会、文明、人類が到達する範囲の空間
4, 通信の範囲、電波、電線、声と音、手旗信号など、社会空間
5, DNA、細胞、臓器、人体、生体の空間。
 
前半は、理論を獲得する。後半は、それを現実世界に実現することを通して、技術を獲得する。
 
無色界
空無辺処 - 虚空の無限性を観ずる境地
識無辺処 - 心の作用の無限性を観じる境地
無処辺処 - 一切のものがないと観じる境地
非想非非想処 - 想が有るでもなく、ないでもない境地
 
無処辺処という境地はどこに?
 段階6末の境地は識無辺処だった。次の境地は無処辺処か? この境地に到達するのは、段階の初期か末期なはずだ。段階7の初期には、個体(物)から放射状の影響力を感じる。何も感じないわけではない。空間が何もないわけではないから無処辺処とは違う。
 
 私はこの段階末の境地に達してなかったので、はじめて今感じてみたが、なかなかにすごい。目前にPCがあり、中の部品が細かにみえる。それが適切に配置されているように感じられる。次に、部屋の中に家財道具が配置されているのが、瞬時に把握できる。だんだんと、範囲が広がり、町の家の配置がわかり、社会の家や道路などの構造がみえてくる。このままどんどんと広がり、宇宙にまで進む。
 
 空間の認識力、物の配置は特にあがる。そして、究極までつきすすむと、空間が、物の中に入り収まる。このあとは物の中に空間があるという感じだ。それを1方向からみる。つまり、テレビを見るようなイメージだ。テレビは2次元の平面だ。次の段階では、その2次元平面の視点を養う。絵画や写真的な視点をやしなうのだ。
 
 というわけで、末期にも空間が消えることは一度もなかった。無処辺処の境地はこの段階にないようだ。もっと上の段階の世界観のようだ。
 
発達心理との対応 22-24才の心理
 社会は19才、大学生のテーマだった。それまで受験勉強で智慧を身に着けたが、それを社会に生かす方法を学ぶのが大学生だった。空間に関心が移るのは、22才だ。1段階をこなすのに3年かかる。22才になると、学生はそれまで社会運動に傾倒していたが、飽きる。都市建築、建物に関心をもつようになる。
 学生時代に社会運動にあけくれた学生が、社会人となって建物や写真など芸術的なものに興味をもつ。これを大人になると自画自賛した人がいたが、それは単に発達心理の順だ。誰でもそうなる。
 
精神は9次元
 この段階の価値観をもつ人は極めて少ない。私が知る限りで、合計3人。理性が満ちており、あらゆる事物を合理的に解釈できる。そして、一つずつの理論が、普遍的である。長期にわたって強い影響力をもつ思想を書く人の段階だ。空間の影響力もとらえられる。
 
瞑想のカリュキュラム
 各小段階を体験したらよいだろう。特に、段階の末で、空間を無限に感じられる境地は面白いので、それを感じてみよう。「弟の力により、段階***を感じさせてください。お願いします。」と思うと、見えない機械がそうしてくれる。
 瞑想でここより上の人は、ここまで落として体験できる。瞑想でここまで到達してない人は、一時的に体験できる。お勧め体験は、「段階初期の停止地点(この段階の精神の人が止まる地点)」と「段階末の無限に空間を感じるところ」だ。
 
まとめ
 この段階は、体験しておくと、空間認識力が高まる。それで、設計をする人は、詳しくマスターするとよい。
posted by たすく at 11:11| Comment(0) | 瞑想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年07月16日

瞑想の科学 段階6 社会

 前段階5で、理性、合理的なもの、理論、法則とは何かを学んだ。"空"に浸り、自分の中の考えを感じ、点検する。そして、合理的に考えることを学んだ。古い思想は、どの程度、合理的だったのか。そういうことにも関心がゆく段階だった。

 瞑想しながら、そこまで気づかなかった? 気づいてほしいものだ。
 
 今回は段階6-社会を説明する。チベット仏教では『如来部』と呼ばれる。残念ながら、私は如来部の詳しい解説を読んでないので、つっこんだことは言えない。が、如来の手前が『菩薩』だ。段階5-理性-が、菩薩の精神ということは、私の見解と一致する。段階6は如来部だろう。
 
 段階6のテーマはなぜ社会か?
 この前に理性を会得した。いかにして段階6に入るか。まずは理性の末期に到達する。あらゆる世界、空間に理性が存在する空無辺処が目前に広がる。そして、『溶ける』。それが暗くなり消えてゆく。瞑想で、後ろか横を振り向くと、明るい世界がある。そこに入る。何もないので、しばらく探す。しだいに、観察者の私をみつける。私は、前段階の理性を完全に身につけている。理性的自己を外から、客観的にみられるようになった。
 
 私は理性者になった。自分の視野に広がる世界にも、自分のありようが投影される。目を開けてみよう。そこら辺を歩いている人も、理性者にみえる。理性者はだんだんと増えてゆく。遠くの人、近くの人も理性者だ。全員が理性者だ。理性者どうしは、同じ基盤をもつので、通じ合う。お互い無関係ではない。

 理性者どうしは、共感する。目前の人が、自分に何か話しかけてくる。理性者どうし、意志が通じ合う。彼らはコミュニケーションしている。しだいに、いろんな人間の交流の様がみえる。つまり、この段階では、人間のコミュニケーションの手段、社会関係がみえるのだ。この段階のテーマは、社会(理性者が作る)である。
 
 段階6 社会
前半 認知的なこと
1, 命令 こちらの欲求、要望を伝えること
2, 自由 もらった命令を自分が最高の形で行うこと
3, 分類・専門 命令を分類すること、専門的な能力
4, 場所 命令を地域ごと分けること
5, 適性 個性、個人の適性を把握して活用すること 
 
後半 組織、人間関係を作る
1, 命令に従わせる 集権組織
2, 自由をもたせる 分権組織
3, 専門家に任せる 官僚組織
4, エリア別に行う 小集団組織
5, 個人を尊重した関係 個人主義
 
 小段階の説明
 前半と後半はそれぞれ5段階ある。前半は認知で、理論や考え方を学ぶ。後半は実践である。
 段階1では命令(要望)を伝え、相手にやらせることを学ぶ。学ぶとは、それがもっともよく観じられ、みえるということだ。コミュニケーションの基本である。
 段階2では、命令を受けた人は自由にそれを行うことを習得する。本人の能力をもっとも生かすやり方を、当人が自由に考えて行う。この段階で、社会的な制約から解き放たれた自由を真に理解する。
 段階3で命令を分類して、専門の人に任せることを理解する。専門家が結集した組織を官僚組織と呼ぶ。
 段階4では場所ごとに命令を行うことを理解する。地域ごとに組織を作るほうが柔軟に物事ができるためだ。
 段階5では、個人主義を理解する。社会に生きる個人の個性や適性を理解する。段階の末では、個人がすべての社会的な能力を身に着ける。そんな完全な個人を意識する。個人が独立していて、その人間関係を理解する。
 
 瞑想でこれらを感じられるか? 目をつぶっていては、感じられないだろう。その段階になったら、目を開けて、町を散歩しよう。人をよく観察する。すると人間関係がクリアにみえることがわかるだろう。何が強調されてみえるか。それをよく感じよう。社会の仕組みをよく学べる。
 
 社会の発達テーマをもつのは19-21才
 この段階の心理と同じなのが、19-21才だ。前半は社会の仕組みに関心が強い。後半は、自分が社会、仲間と関わることに積極的になる。この年代の記憶を想い浮かべ、そこより下がるなどして、その段階の精神にゆくと、社会に理想をもったり、社会活動に希望をもっていた時期を思い出せるだろう。
 
 仏教との差異、段階6の境地
 
無色界
空無辺処 - 虚空の無限性を観ずる境地
識無辺処 - 心の作用の無限性を観じる境地
無処辺処 - 一切のものがないと観じる境地
非想非非想処 - 想が有るでもなく、ないでもない境地
 
 無色界の空無辺処は理性の末期だった。社会の境地は、識無辺処だ。仏教では、その段階の初めと末期、どちらかの境地だ。段階の初めは、新しい視点が素朴な形で現れる。末期では、新しい視点があらゆる世界で複雑に感じられる。

 識無辺処は、心の作用を無限に観じるので、社会の末期に体験する。見える世界、石も椅子、壁、時計などあらゆる物に、心を感じられる。心とは理性だ。

 2019年の現在も思想区分では、社会思想期の終わりである。現在の社会はもうすぐすると、識無辺処の精神に至る。AI(人工知能)が理性である。人工知能があらゆる電化製品に取り付けられたら、すべての生きたものに理性が備わっていることになり、識無辺処の世界観に近くなる。識無辺処はアニミズムとは少し違う。アニミズムでは、すべての事物に宿る心は原始的だ。が、識無辺処では、その心は高度なのだ。
 
 仏教では、この段階で過去、現在、未来を感じ取るとあるが、今回、みつけられなかった。時間を観じるのは、段階9-2次元に一つあるが。
 
 この段階を超えると、無処辺処の段階7にゆく。それはまたのお話。
 識無辺処あたりは、ブッダが最初の師が到達していた瞑想の段階だ。ブッダがこの境地に満足できなかったのは、理由がある。彼の精神はすでに、この段階の境地よりも高かったからだ。識無辺処は精神では8次元上位である。ブッダは、大日如来となるので、生きて9次元だった。それで、この境地では彼の通常の精神よりも劣るのだ。当然、瞑想で自分より優れた知見を得られると思ったブッダが、がっかりしたのはいうまでもない。
 
カリュキュラム
 段階6-社会の好きなところを体験できる。瞑想でここより上に到達した人は、そこまで一時的に降りる。ここまで到達してない人は、軽く体験できる。体験しても、段階があがるわけではない。
 『偉大なるお兄さん、段階***を体験させてください。』と願うと、体験できる。みえない心理操作の機械がそのように導く。
 
 お勧め
1, 段階末、段階7-社会に入るまで --空無辺処から段階7に入る
2, 識無辺処 -- 賢い人に取り囲まれているような世界観だ
 
 以上
posted by たすく at 10:17| Comment(0) | 瞑想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年07月15日

瞑想の科学 『空』とは

 実際にここでは、瞑想の段階をつきとめている。仏教ではそれが中心に語られる。それを発達心理の段階と対応させている。発達心理は、思想史とも合致する。
 
 私の発達心理論では、1段階に小さな段階が10つある。前半と後半が各5小段階ある。小段階の前半は5か6のどちらかだ。今は5のほうでやっている。瞑想の階梯について、小さな段階10を透視して、つきとめている。透視しているので、科学とは言いにくい。瞑想の解明のほうがよいかもしれない。
 
 『空』とは、仏教の悟りの代表のような境地だ。私の理解では、感覚、欲望など世俗の思いとは離れた境地である。が、何もないわけではなく、自己がいる。その自己をみつめると、理性的、数学的、論理的な自己が存在する。仏教では、それを『想いだけの世界』と呼ぶ。
 
 瞑想では、『空』がつく境地は『空無辺処』だ。虚空の無限性を観ずる境地だ。無色界の4つの境地の一つで、下から1番めである。他は、上に識無辺処、無処辺処、非想非非想処である。

無色界
空無辺処 - 虚空の無限性を観ずる境地
識無辺処 - 心の作用の無限性を観じる境地
無処辺処 - 一切のものがないと観じる境地
非想非非想処 - 想が有るでもなく、ないでもない境地
 
仏教では、瞑想は段階をこの順に進むということが述べられている。仏教の経典の多くは瞑想の教科書なのだ。この前の境地には大円境智、平等性智、妙観察智、成所作智があった。
 
大円境智 - 大きな丸い鏡があり、曇り一つない清浄な境地
平等性智 - すべてのものが平等であると観じる境地
妙観察智 - 物を識別して、区別する境地
成所作智 - 物事の作用(動き)を観じる境地
 
 つまり、成所作智の次の境地が空無辺処だ。『空』は段階5(理性)の境地だ。理性の境地とは、感覚や言葉から離れて、自己の中に法則を感じ取ることだ。

 『虚空』というのは、それまで何かが動いていたが消えた空間をさすと思われる。『虚』はそれまで何かあったものが今はないという意味と解せるからだ。何かの運動が消えて、到達する境地である。運動は段階4にみるものだ。その次の段階5の理性では、運動から法則を得るのが課題なので、あう。運動が消えて、法則が残るということを観じる。
 
 段階5の理性を無色界とするのも、よい。無色界では、欲も物質もなく、精神の作用のみが働くからだ。理性者は、そういう人物である。すべては合理的に考え、理性(理論的な思考)だけがある。
 
 透視では、空無辺処は段階5である。ただし、これはこれまでの段階のはじめの境地とは異なり、段階5の末の境地である。なぜそういえるか?
 
 無限性があるからだ。瞑想で『無限』とはそれがあらゆる場所、何重にも感じられることだ。あるもの(虚空=この場合は法則)が視界のすべてに、どこまでも感じられる。段階の初期では、新しい視点は一部にしか感じられない。その段階をあがるほどに、その新しいテーマを視界の左右前後、上下、それに複雑、重層的に感じられるようになってゆく。そのように全てにわたって無限に感じられるようになるのは、段階の末である。よって、空無辺処は段階5(理性)の末期に感じられる境地である。

 空の境地とは、本当は何もないというわけではない。何もないと感じた時に空に到達する。はじめは何もないと観じるのだが、そのすぐあとに、自分の『想い』があることに気づく。それは数学的、合理的、論理的な思考である。いや、世界の諸法則が、視界に新たに感じられる。

 その空の段階では、法則だけを純粋に観じる。簡単にいえば、合理的な理論だけの世界観、つまり科学的な世界観のことだ。工学に通じた人が、あらゆる視野の全方位に細部に渡って、科学の法則を感じ取る。それに近い。実際には、透明な光の美しいタペストリー(法則、数学のグラフのような曲線)を、物一つずつに感じる。一つ一つはそれである。
 
 それがあらゆる方向に無数に感じられるのが空無辺処の境地である。空無辺処が、大乗仏教で語られる『空』とやや異なる。それは大乗のは、『空編』あたりを空と考えている節があるためだ。空無辺処は、その『空』を無限に感じられるので、末期なのだ。あるものが無限に感じられるのは常に、段階の末期だから。

 『空』の境地に入るプロセス-段階4末から段階5に突入する様
 空に到達するには、欲も感覚、物質も飛び越える。それは、段階4(運動)から、段階5(理性)に入るまでのプロセスだ。そこを詳しく解説しよう。
 
 段階4(運動)の末では、しだいにあらゆる視界に様々な運動を見いだせるようになってゆく。自分の周囲、社会、空間全体に運動を感じられるようになる。それがだんだんと広がり、宇宙の運動をすべてとらえる感じになる。そして、無限に入り、暗い世界になる。この時には、段階5にあがっている。
 
 そして、『溶ける』(チベット仏教では段階の末になり、次にあがる時の様相を溶けると言う)と、明るい世界に入る。目前は暗い世界(段階4運動の末)だ。運動が、今度は全ての物体の内に入り込んでいる。それまで段階3では運動のプロセスを見ていたが、それが一つのもの、すなわち法則として認識できる。その状態に到達したら、後ろを向く(瞑想で心の中で後ろを見る)と、明るい世界に入っていることに気づく。

 すべて、それまで見てきたものは、虚空に溶けてしまう。『虚空に溶ける』とはチベット仏教の表現だ。段階の末期にそれが起きると、次のステージにあがる。

 今回は運動の一つずつを自ら行っているようにそれまで感じていた。が、その運動すべてを遠くから眺めているような感じにかわる。実物の猫を、『猫』と名付ける。その名前は言葉の上の概念だ。それまで運動の実際を見てきたが、より上の段階では、運動の名前のみを言う感じである。運動の個別性は、消えてなくなってしまうのだ。それらを『溶ける』とチベット仏教では表現するらしい。
 
 新しい境地になってから、安定するまではまだ暗い。まだ感情や感覚、欲はすぐに消える。それまでずっとみていた段階4のテーマ『運動』も消える。真っ暗な中で、何もないかのようだ。が、自分はいる。(ここはデカルトの我思うがゆえに我あり)の境地と同じだ。ここまでが、溶けるの説明。そして、ここまで大乗で語られる『空』に入る時に体験するものだ。
 
 仏教はこの後、空の境地に入ると、空、想いだけの世界という簡単な説明となる。が、西洋思想はここからが詳しい。
 
 空の境地では、自分の中を覗く。何ないが、世界を観察する自分がいる。想いがある。自分は存在している。その自分の中を覗くと、新しい段階の世界となる。ここはデカルトによると、数学的な自己、合理的な自己、論理的な自己などがある。段階5は、理性なのだ。
 
 というわけで、大乗の『空』は段階の初期の境地なのだ。わかっただろうか。空は、単に瞑想の段階であり、自分は理性であると感じる人の境地なのだ。『空』の思想から様々な哲学的な論争が、仏教の中では繰り広げられたが、あまり意味はないのだ。単に、人間の理性の性質についての議論なのだ。万物に適用できるはずもない。
 
 唯識論のように、教説で、無がどうのこうとか、そういうのはあまり意味がない。理性の性質として、そういうものだという理解で十分だ。理性は、瞑想の段階では『法則』だ。が、もっと深く理解すると、『論理学』的思考で、PCが発達した今では、論理演算のことだ。論理演算のことだ。論理演算を基礎とする思考様式や世界観のことだ。わかりやすいものでは、科学的な世界観のことである。
 
 段階5(理性)に到達して、その世界観に慣れてくると、現代の科学の世界観を理解しえる。それは段階5の精神をもつ人だけに可能なようだ。そうでない者たちは、科学はより上の世界観であり、本人の哲学とは異なるものとなる。
posted by たすく at 11:05| Comment(0) | 瞑想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする