2017年06月29日

『世界はなぜ「ある」のか?』(ジム・ホルト、早川書房)の感想 その7 14章は、自己とは何かを彼なりに追求したが…

『世界はなぜ「ある」のか?』(ジム・ホルト、早川書房)の感想 
その7 14章は、自己とは何かを彼なりに追求したが…

14章 私は本当に存在するのか?
 仏教徒は、特に日本人は、「死んだら、世界(自分の)も終わる。」という言い方を好む。1人がいなくなっても、宇宙が滅びることはない。だが、仏教を否定する唯物論者の全共闘がこのセリフを好んで使うのは、悲しいほどに無知が原因だ。彼らは哲学を正しく理解していない上に、混乱している。

 マルクス主義かぶれの唯物論者は、死んだら終わり。魂はない。仏教のそれも似た思想だから、彼ら全共闘は彼らが嫌う仏教的な考え方でも、平気で信じる。この問題はいずれ考察しよう。ここの主題ではないので、今度また。

 唯物論は、魂がない生物学で、死んだら外形的に本人は終わり。仏教は心の内から人を見て、死ぬと、自分の内的な世界が終わる。同じようなことを言うが、まったく異なる観点だ。

 どうでもよいので、これ以上はパスする。

 14章では、「死んだら、自分の世界が終わる」が、その自分の世界は何かをつきとめる。

 「自己」とは何か。それまで、プラトンのイデアやヘーゲルの純粋自己などをテーマにしてきた。彼の言う自己は、そういう純粋数学的なもの。つまり、デカルトの我思う故に我ありの我、カントの理性、ヘーゲルが定義した「純粋自己」に近い。

 唯物論の自己=肉体という意味あいではない。マルクス信者は、このあたりで落伍してもらおう。

 理性哲学においては、自己は純粋なものである。それは現代では、論理回路上の『認識』をさす。自己をつきとめると、脳神経のネットワーク上の認識にゆきつく。それは電子回路のデータ・プログラムなどをさすだろう。

 自己の本質的な部分は、論理回路(いわゆるPCのICチップ)である。が、ジム・ホルトはそう考えない。

 論理回路上の記録、パターンなどを自己とみなすのが私には適切に思える。それは電子基板に記録された「データや幾何学的パターン」という抽象的なものである。それは、ヘーゲルのいう純粋自己に近い。

「パターン」とは、数理的、幾何学的な法則をさす。人工知能は、そういうパターンを自動学習して、現実に応用する。人工知能のとらえる法則とは、多くはパターンである。自己は「純粋自己」とするヘーゲルの見地は、かなり正しい。

 と自己の正体を私は、このように理解している。が、こういう本質的な議論は残念ながらない。

 その自己は、宇宙のどこに存在するか? どういう目的のために存在するか? などを14章で彼は問う。

 彼は、自分が宇宙に発生したのは、幸運、偶然の賜物という。これは、自分はなぜ宇宙に存在するのか? という疑問への答えだ。母親に「お前なんて生まれなくてよかったのだ。」と言われた時の弁明でもある。426頁にそんな話が長々とある。「私は幸運にもこの世に(宇宙に)生まれたのだ。」という。何も哲学的に考える必要はないことなのだが。

 ただ生まれたなら、誰でもよかった。なぜ、自分なのか? 自分の性格はどこからくるのか? の答えとして、「遺伝的アイデンテティ」と、遺伝子を原因とする。育ちや成長時の体験などは彼はあまり考えない。そんな遺伝子が自己の形成にどう関係するかの詳細な話は、彼は語るだけの知識がないようで、すぐに話が飛ぶ。

 彼は、結局、自分は存在する(427頁)、という答えにゆきつく。デカルトに逆戻りである。

 429頁からは、「自己」の新しい論を示す。

「個人の中に意識の流れ、つまり絶えず出没する小さな移ろいやすい複数の自己」
「1時間以上にわたって存続することはない。」
「眠りという忘却でじきに消滅する。」
「毎朝、新しいデカルト的な私が目を覚ます」(430頁)

 自己とは「意識」だと考えると、上のような特徴がある。ガレン・ストローソンやトマス・ネーゲルは似たようなものをあげる。

 でも、結局は、脳が破壊されたらあなたは一貫の終わり(433頁)。自己は、脳に付随するもの、宿るものなのだ。自己とは何かについて、純粋に物理学的な答えがある、という。

 この後、考察を深めると、理性とPCのICチップ、パターン認識などを論じて、純粋自己の正体にゆきつくはずなのだが、ジム・ホルトはそんな真に哲学的なことは考えない。

 話かわって、
 
 自己は宇宙を想像して、宇宙の概念をもつことはできるとしても、「私だけが宇宙の主体ではない。(440頁)」という。

 「宇宙が、私であるという無比の性質をもつ存在を包含するようになったことへの驚きは、極めて原始的な感情だ。(443頁)」

 わかりやすく言う。これらは「私は宇宙である」という仏教の悟りの境地の一つに対する反論だ。それは原始的なものでとるにたらないもので、それは理性的なものではなく、感情的なものと侮蔑する。瞑想家が、『私は宇宙だ。』と思い込んでも、本当にそうなったわけではない、とジム・ホルトは言いたいようだ。そこは正しい。あの悟りの境地、宇宙=自己は真実ではない。

 彼は書きすぎたようで、混乱した書き方のままこの章をまとめる。

 「私がまったく存在しないと想像するのが困難なことだ。」
 「私がけっして現れない世界を思い描くのが、なぜそんなに難しいのだろう。(443頁)」

 眠った時か、死んだ時のことを考えたらすむ。が、ジム・ホルトはそんな簡単なことも想像できないのだ。私は呆然とした。

 「私が一度も存在しなかったと想像することは、この世界が一度も存在しなかったと想像するようなものだ。」----A

 「それは、何かがあるのではなく、何もないと想像することと似ている。」---B

 愕然とした。作者はやっちまった(大きなミスを犯した)。無理やり、本書のテーマに戻した。本人はうまくまとめたつもりなのだろう。が、日本人はAとBを理解しない。

 Aは、明らかにおかしい。自分が一度も存在しなかったと想像することはできる。彼のこれまでの論理では、ただ、自分がいないだけで、世界は同じように動いてゆく。自分がいないと世界が終わるという仏教的な考え方に、彼は同意しないからだ。自分がいなくなっても、世界は存在すると、考えなくては辻褄が合わない。

 量子論の確率の世界で彼は書いたのだ。家猫が生きているかどうか。生きてなくても、それはそれで世界は、ほとんど同じように進む。「もしもの世界」というドラマは、もし、あの時私が道を右に曲がったら、どうなっていただろう。左に曲がっていたら、どうなっていただろう、とそれぞれの世界のその後を描いて見せてくれた。それで、日本人は、自分がいない世界を想像することもたやすい。

 自分がいないだけで、この世界が一度も存在しない、という極端な話にならない。単に、私だけがいなくて、その他はすべて同じ。家族もいて、友達達もいて、学校もあり、何事もなく、ふつうに世界は進んでゆく。

 そういうわけで、日本人はBを納得しない。自分がいないときは、残った者達によって世界の営みが続く。「世界そのものが消えてなくなる」とはまったく考えない。何もないとは想像しない。『何もないと想像することに似ている』という話にはならない。

 この西洋人、かなりテキトーだ。間違い多い。内容ひどい。そう思っているうちに、この章は終わる。

 西洋人よりも、日本人のほうがいくらか進んだ見地をもつものが、いくつかある。それで、彼の話がよく理解できない。仏教のテーマに近づくほどに、西洋人の考察は安直さからほころびが出る。彼では、仏教の本場、東洋人には届かないようだ。
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2017年06月28日

『世界はなぜ「ある」のか?』(ジム・ホルト、早川書房)の感想 その7 価値支配説と? 彼は善がわかってないね

『世界はなぜ「ある」のか?』(ジム・ホルト、早川書房)の感想 その7 価値支配説と? 彼は善がわかってない

 11章「何かが存在することの倫理的な要件」
 価値支配説とは、「何かに価値があることが、それ自体でものを存在に至らしめる傾向がある。(343頁)」

 要は、夫婦がいて、赤ん坊がほしいから、赤ん坊を作ることだ。赤ん坊は夫婦にとって、価値がある。それで、赤ん坊は生まれてくる。

 この宇宙は、神(宇宙の創造者のこと)にとって、ないよりあったほうがよく、価値があるから、発生した、という考え方だ。

 価値とは善で、何かよいこと、必要性があることをいう。人は、必要性がないものは作らないし、悪いものは作らない。エジプト人はピラミッドがよいものだと思って作った。必要だったのだ。

 この章でジム・ホルトはレスリーと対話して、レスリーの話しぶりがなかなか知的で崩れなくて、面白い。が、レスリーは「善」のなんたるかを知らない、説明できないので、がっくりだ。

 西洋哲学は、善、徳などは具体的に語れない。それが欠点だ。キケロの弁論術からそれは始まっている。キケロは徳とか、いろいろ徳目を並べて語るのが得意だった。が、あまりその中身について、説明して、定義しなかった。西洋で、徳目が細かく語れなくなり、教育できないのも、そこいらに原因がある。

 だが、キリスト教徒に言わせると、キケロではなく、イエス・キリストが各道徳項目を説明しなかったことが端緒という。

 善とは、人間にとってよいことだ。それはたいてい、人間の生存をよりよくするもので、生物学的なものだ。悪い食事は毒など入っていて、不健康にする。よい食事はおいしく、健康にする。善とは、人にとってよいことだ。ある(正しい)目的の中で、よい方法なのだ。

 ジム・ホルトはこの基礎も知らないで、がっくりくるのだが。

 生存上によいことで、つまり、生物学的に決まる。生きるためのもの、極端な例としては種の絶滅をより防ぐものがよいこととなる。これで善の定義は終わり。

 一般的には、善は生物学的により幸福にするもの、と言うべきだろう。彼は、客観的な善があるのかないのか、はっきりしない書き方をする。それはあるのだ。生物学全体が繁栄するようなシステムが、人間という種を超えて、生物一般的な善となる。それがより客観的な善の基準だ。あまり難しくない。

 この観点からは、価値支配説はどうなるのか? 神が宇宙を作ったのは神にとって何がよかったのか?

 我々の宇宙があると、神の扱う宇宙の中で、生物がより幸福になる。単純にそういう生物学的な理由となる。宇宙を一つ増やしておくほうがよい。宇宙は1つより、2つあったほうが生物学的に絶滅する可能性が低くなる、というような答えとなる。

 では、この価値支配説の反対は何か
 偶然による説だ。宇宙は、偶然によって発生した、という考え方だ。それまでの成り行きで、特に意味なく、宇宙は創造された。宇宙は、初期の量子トンネルなんたらの確率で発生した、という考えだ。(偶然というが、それを利用して、宇宙を創造すると、意図によって生じたことになるが…)。

 悪の目的によってこの宇宙を作った、というのは反対語にならない。価値支配説について、私はその価値を善のみと扱ったが、言葉自体は善と限定してなく、悪でも構わないからだ。悪のためにという観点も価値支配説の一つになる。

 偶然によって、この宇宙が発生したか? もしくはなんらか意図があって、作られたか?

 どちらかと問われたら、私は何か意図が少しはあった考える。すべて偶然とは考えない。宇宙の発生は、人間にとってはとてもとても高エネルギー領域の出来事で、関与不能だ。が、それに何らか関与できる生物がいても、おかしくない。

 我々が住む宇宙は、発生時に別宇宙の知的生命体が何らかの関与したと思う。それは神とは言わないが、そういうレベルの知的生命がいると推理する。それで、わずかに調整されていると思うのだ。

 高度な知性の計画で、宇宙がこの規模になったとか、法則や素粒子構成が決まった言うつもりはない。宇宙のサイズは、この宇宙の周辺環境が原因で決まったと思うからだ。太陽系の誕生とそれは似る。ガス雲の濃さ、大きさが太陽のサイズを決める。この宇宙も似たようなものなのだ。宇宙発生の時、高度な生命が広域の環境を大規模に操作したというのではなく、もっともっと小さな範囲で関与したと思うのだ。

 で、何が言いたいのか?

彼は善によって満ちる世界を想定しなかった。永遠にこないかのような書き方をしていたが、それは案外早く、人類が数万年以内に達成できるだろう。幸福で秩序だって、ほとんど正義だけしか行われないような社会になるのは。人類は、日々、人間の問題を解決する。そのたびに、悪を一つずつなくす。人類にとって、悪は、毎日毎日、少しずつ消える。残るのは、善のみだ。善は一つずつ増えてゆき、何万年後には、善に満ちる社会となる。
 社会の規律や秩序は日進月歩で整う。ジム・ホルトは、こういう私からすると初歩的な想定がまったくできてない、と思った。

 宇宙が倫理的になる。それは時間の問題なのだ。何億年も先には可能なのだ。宇宙も少しずつ倫理的になっている。こうすっきりいえないところが、この哲学論考本の弱さと思うのだが、いかがだろうか?

 キリスト教徒世界では、善悪の理論や社会秩序、倫理、道徳などの思想が要は弱い。
posted by たすく at 22:55| Comment(0) | ジム・ホルト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月25日

『世界はなぜ「ある」のか?』(ジム・ホルト、早川書房)の感想 その6 プラトン主義(イデア論)=「概念」で、認識論の範疇

『世界はなぜ「ある」のか?』(ジム・ホルト、早川書房)の感想 その6 プラトン主義(イデア論)=「概念」で、認識論の範疇 

 この本は、「9章 幕間 多世界への一言」で、世界が無にならない答えがほぼ出た。一つの宇宙なら、最後になくなるという理論が間違いだから。多宇宙なら、けっしてなくならない。すべての宇宙が一斉に消えることはない。それで、宇宙はけっして無にならない。それを恐れることはない。これが主題--世界がなぜあるのか、逆に言うと、世界が未来永劫にけっしてなくならないことへの答えである。

 それ以降は、「10章 プラトン主義の意見」など哲学者や現代思想家が好むテーマはおまけだ。

 プラトン主義とは、イデア論のことで、概念を信じる人達のことだ。概念とは、人が世界を認識するために用いる簡易な構造(パターン)。

 サー・ロジャーが、1, プラトン的世界 2, 物理世 3, 心的世界がある、と世界を3つに分けた。ジム・ホルトはそれにいくつか西洋流の反論をした。私は、このプラトン主義に対する一般的な反論法は知らないから、新鮮だった。

 プラトンの古典哲学の迷信みたいなものに、いつまでもとらわれている西洋人が少なからずいるのは、不幸である。プラトンのイデアは、「概念」であり、認識論の一つ。それをプラトンは当時の人がわかる範囲で、ギリシア風に定義した。プラトンのそのあいまいなイデア論に全部に、現代人がつきあう必要がない。

 現代の分類では、プラトンのイデア論は認識論で、心的世界なのだ。別個にするのは間違い。これらを理解できない西洋人がまだいるとは… 

 西洋にはいくつかの不合理な哲学があって、その一つがキリスト教神学の「創造神仮説」ともう一つが「イデア論」だろう。それにいちいち回答を出すのが、西洋哲学者の努め。この章でそういうことはわかった。
 
posted by たすく at 18:36| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする