2017年04月17日

相性とは

 相性とは
 相性は、男女、親子、友人、師と弟子など人間関係の好悪をさすものだ。

 相性がよいと親しく、信頼して、親密になる。相性が悪いと、相手に反発する、嫌う、不満を相手にもち、信頼しない。

 相性がよい人は、共通の価値観・信条をもっている。例えば、同じ趣味どうしは仲が良い。同じ政治スタイルでも、気が合う。相性とは、意見の一致が大きな原因だ。相反する価値観が話すと、反発しあい、お互いに疑いあい、信用しない。

 価値観が違う場合でも、相性が必ずしも悪いとは限らない。日本人と外人は、考え方が違うが、相性が悪いわけではなく、気が合う者たちもいる。

 ある信条(目標)について、一致する場合
 人間は趣味に生きるのがよいと思う人達は、こういう文化志向の人達は相性がよい。趣味が、絵画や彫刻など違いは、そう大きくはない。絵画好きと音楽好きが決定的な人間関係の亀裂になることは、あまりない。

 男女は、生き方が違うが、相性がよいと認め合う。細かい価値観が違う時、それは最初に問題にならない。が、話すうちに「その違い」がしだいに重大になる。すると、両者のつながりはなくなる。

 相性が悪い時、相手の行為が、嫌がらせと感じることが多い。自分を否定するとも感じる。相性の悪い者たちは、自分の価値観と反対だ。それは直感的に感じる。普段は、日本人の間では、明確に価値観の違いが現れない。物をはっきり言う人々の間では、相性の悪さは、言葉に両者の違いが明らかになりやすいのだろうが。つまり、相性が悪い相手は、自分の中にある奥深い価値観を否定する。

 心の許容度と相性は関係する。狭い心の人ほど、合わせられる人が少なく、相性がよい人が減る。多様性を認める人は、つきあえる範囲が広がり、多少の価値観の違いに反発することはなくなり、相性の悪い人は減る。アメリカでは、こういう寛容性が一部に求められる。

 だいたい相性の好悪は、生き方の違いから生じる。日本で相性が悪い相手でも、海外では相性が悪くならないこともある。例外的なことだ。それは海外では、生き方の優先順位が異なり、それぞれの立場が変わるからだ。

 以上が基本的な相性に関する話だ。

 相性のよい人とは、生き方の基本的な価値観が似ている人である。相性の悪い人は、それが多くの点で、対立する信条になっている人である。そして、両者の価値観が決定的に、わかりあえないとされる場合は、ずっと反発しあう。お互い融和することができる、和解できると思われている事柄なら、わかりあうことができる。もちろん、相手を認めるという単純なことだ。その時の関係は、対等ではなく、より正しい信条のほうが上で、より悪い価値観は下に位置する。両者はそんな人間関係に最終的になる。

 この相性というものが、恋愛にどう作用するかは、またの話。その前に、相性を決める「当人の信条」とは何か? それを明らかにしなくてはならないだろう。
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2017年04月15日

学生結婚を成功させるこつ

学生結婚を成功させるこつ

 別れる夫婦は外から見たら、一目瞭然。どうみても合わない。相性が悪い。 親や人間関係の機微に敏感な人からみると、なぜあの2人が夫婦になるのかがわからない。そんな2人は結婚しても、すぐに別れる。

 本人達はいたって真剣、愛し合っている、2人でいることが幸福と思い込む。いったいご当人達は何を間違えたのだろうか?

 失敗する学生結婚と長もちする結婚との差
 学生の時、べったりして、互いに馴れ馴れしく、しかもおっとりつきあっていた恋人同志が私のまわりで2組結婚した。その2組とも、部室に来ては2人だけで楽しそうにしていた。

 私は人を見る目だけはある。相性はすぐに判別できる。この才能は当時からあった。

 この2人はお互いたいして好きでもないのに、他の異性と積極的に交際もしないで、なぜ時間の浪費をしているのだろう、と思っていた。その相手は最善でもなく、とても相性のよい相手ではない。

 なぜ2人が別タイプか。積極的で情に厚い女性。男性はかなり鈍く、淡白。男性が女性の心根の強さを受け取れるほど鍛えられてはいなかった。2人の間にあまり通じるものはなく、薄い愛しかなかった。性格の能力のギャップ、気質の差が歴然としていた。

 結婚は意外だった。その2組とも相性はよくなかったのだ。人生では、相性がよくなくても結婚できる、ということをこれで知った。単に、同じ家に住むという感覚が似ていたら、結婚できるようだと理解した。

 その1組は不幸な別れ方をした。片方はまだやや執着しているが、いつまでもつかはわからない。

 離婚はもう1組もある。その2人にの間に全く相性なんてものはなかった。単に、お互いが好いている、という小学生並の幼稚な恋愛観で結婚した。女性は結婚願望が強く、学生で相手を見つけて、卒業する時に結婚するというシンデレラストーリーにただただ憧れていた。そのプランを実現した者が女性の勝者。優等生の思い込みだ。それに尽きる。その夢が成就することに舞い上がってしまい、相手を間違えたことは本人は理解していたようだが、勢いで突き進んでしまった。

 この夫婦に愛なんてものははじめからないから、10年たたないうちに男が女を作って逃げた。女は男にこだわったようだが、好きでもないのに、やはり無理だったと悟るのは時間の問題だった。私が見たところ、両者は相性が何もないのだ。お互いが好きという感じがない。ただなんとなく合う。同じ空間を共有しそうだ。そういう感覚しかなかったものと思われる。妥当な結末だった。

 大学の学生結婚は、どうやら相性が悪い相手を選ぶ傾向があるようだ。大学で、他大学と交流を繰り返し、その中で最適者をみつけるなら、こんな失敗はしない。同じ倶楽部で、わずかな人数の中から気の合う相手を選ぶ。すると、こういう間違いを犯す。

 大学の倶楽部内結婚は、趣味の一致しか共通点がない。狭い範囲から相手を選んでいるから、相性のよい相手でないことが多い。もし、相手がそういうケースに該当する場合は、長持ちしない可能性が高い結婚だと覚悟してから、どうぞ。

 例外的に倶楽部でみつけた相手が、よいケースもある。人生の不思議というものはあるもので、私は、倶楽部に、私の全人生で出会う中で、相性の良さが5本の指に入る女性がいた。彼女は興味深いことに、私の幼馴染より相性がよいらしいのだ。私の学生の頃では、小中高で出会った中でも1、2位の相性だった。稀にそういう抜群に意気があうのもいる。

 違うか。その女性がいるから、私はその倶楽部に入ったのか。そうだった。間違い。大学の倶楽部に偶然集まった中から、結婚相手を選んではいけない。これが正解だ。

 同じ大学には、案外、相性がよいのがいる。これは人生のいたずらである。そういうのとつきあうと、うまくゆくことが多い。それは、大学の同学年は2000-6000人はいるが、異性はその半分だが、かなり大勢から自分に合うのを1人選ぶ。そこが大きい。大学では、構内全体を探す。それが長持ちする結婚の秘訣である。

 小学校はせいぜい同学年は400人、中学は300-400人、高校は400-600人。それよりも、大学は人口が多い分だけ、より相性がよい相手を選びやすいのだ。企業の中にみつける、さらに社会人の中から探す、と母集団をより大きくするほどに、より相性がよい相手を選べることは数学的に当然だ。

 大学では倶楽部の中に探さずに、同じ大学にいる全体を見渡す。それが、よい相手をみつけるこつである。
posted by たすく at 22:58| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月10日

全員が完璧で、完全無欠で、能力が最高である。そんな社会はつまらないのか? いやむしろ、最高に楽しいのではないか?

 全員が完璧で、完全無欠で、能力が最高である。そんな社会はつまらないのか?

 日本人はよく、不完全であることを自慢のネタにする。「人間は弱いから、楽しいんだよ。」、「弱点がある人ほど、人間らしい。」。無能なことを自己弁護する。あげくの果てには、「神様のように完全な人間、完璧な人間なんかつまらないね。」と言い出す始末。

これは才能がない者のひがみ。失敗した時、才能あるやつに昇進をとられた時の言い訳である。低能な者が、同列を周辺にはべらせて、慰めあう。そんな向上心がない者たちの自らの立場を正当化しようとする嫌な会話である。

 今日は、最高で完璧な人間は、人間らしくないのか? そんな人間は素晴らしくないのか? またそんな高度な人間たちが集まると、楽しくないのか? を考える。

 まずは才能がある人とない人とを比べる。どちらがつまらないのかを。
 囲碁に最ものめりこむのは、プロや高段者アマだ。低級者ほどに仕事のあいまに軽くやる。アマチュアでもトップは実に囲碁を楽しんでいる。彼らは囲碁ばかりやっていても、飽きない。初心者は負けたりするとすぐに囲碁に飽きてしまう。つまらない、と言って。

 一般的に、才能はある人たちほど、それを愉しむ。才能がない人は、それを楽しめない。

 傍から見て、才能ある人達と才能ない人達。どちらが面白いか。楽しめるか。囲碁の場合は、もちろん才能ある者達の試合だ。ヘボ碁などつまらなくて見れない。トッププロの碁は一見の値打ちがある。つまらないのは、この場合も、才能がない者達だ。そして、一般的には、才能あるほど、それは人々にとっても面白く、エキサイティングなものだ。

 問題は、完璧で完全で神様のような碁打ちの碁は、つまらないかどうかだ。現在、ちょうどトッププロを凌駕する碁打ちが現れた。コンピューターのアルファ碁である。並み居るトップ棋士をばたばたなぎ倒し、30-50連勝した。誰も勝てない。

 まさに完璧で完全なのだ。世間の人はアルファ碁の対局をどう感じているか? プロ棋士にとっては注目の的だ。なにしろ最高の一手が見られる。最も面白い碁だ。

 高度な能力をもつ人の行いは、他者が見ても、価値がある。エキサイティングである。つまらないことはない。

 才能をもつ人自身も、それをすることが面白くて仕方ない。本人も愉しむことができる。一般的に、能力が高い人ほど、それをする喜びが大きくなる。マニアほど熱中するように。

 個人の場合、才能が高いほど、より愉しむ。傍目にも面白くみられる。個人が複数の才能をもつ場合、やはり同じだろう。万能では、全ての活動において、当人は最高度に愉しむことができる。

 一人の完璧者がそんなに愉しむ。そんな偉人が2人になると、やはり状況は同じだろう。彼らも周囲も最高度に楽しめる。で、その完全に近い人々が増えるほどに、愉しみはますだろう。彼らとその社会全体が、楽しいのだ。

 全員が完璧で、完全無欠で、能力な社会では、最高度に喜びがある。社会の構成員はそこに生きることが、つまらないことはまったくない。

 プロ棋士達が集まって、他人の碁をあれこれ論じているのをみると、本当に楽しそうにしている。が、アマチュアで碁を打つのは、プロほどに楽しそうにしてないのだ。

 反論終了。

 で、愚かさ、間違えること、無能なことをウリにしている者たちは、誤った観点から、天才たちを小馬鹿にして、鬱憤を晴らす。だが、それは見当違いだったのだ。しかし、彼らが言いたいのはそれだけではないだろう。
 賢明な人々の群れを単に、茶かしたいのか? 賢い人に嫉妬したのか? それはあるだろう。が、彼らはまたこうもいう。「間違いや失敗をするところが、人間らしくていいんだ。(完璧でないことがよい)」 本当だろうか? それはまたあとで検証しよう。
posted by たすく at 22:01| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする